昭和四十九年三月
多摩美術大学の沿革史
村田晴彦理事長口述 追記予定)

多摩美術大学の沿革史 緒論(旧帝国美術学校からの経緯)

 昭和四年の春。北昤吉氏から、こんど美術学校の校長になることになった。学校の校舎はいま建設中だから一度見てくれといわれて、吉祥寺の畑の中へ案内された。平屋建長屋式のバラックが細長く一列に並んで建っている。これが学校か。豚小屋のようなものであった。修行年限三年、入学資格は中学三年修了の各種学校だという。
 一体各種学校などという学校があるのですか、と北さんに聞いたら、洋裁学校、自動車学校並だとのことであった。そんな学校の校長なんかにならない方がよいのではないですかと私はいった。
 当時北昤吉といえば第一次世界大戦後最初に独逸へ入いって三年間ハイデルベルヒで、リッケルト教授について哲学を修めて帰国したばかりの新しい哲学者として名声嘖々たるものであったのである。それなのに何んで専門学校でもない各種学校の校長なんかにと、私は思った。
 北さんは校長を引受けて校舎も建設中なので、いまさら断ることも出来ないし困ったな、と困惑の面持ちであった。而かも木村泰賢さんが東洋哲学、井上忻治さんが心理学を三木清氏が西洋哲学、北昤吉氏が校長ということであったから、私はそれなら、将来入学資格を中学卒業、修業年限五年として、上野の美術学校にも優る学校を作る、という理想をもってしてはと進言した。北さんは、よしそうしよう、でなければ校長は断ることにするといった。
 こうしたことから帝国美術学校という名の各種学校が昭和四年十月から吉祥寺の一角に生れたのだが、翌五年の四月、学生募集には「入学資格中学卒業、修業年限五年、定員百名、徴兵猶予の特典あり」と発表し、さらに近く専門学校昇格予定、と広告した。当時「徴兵猶予の特典」ということがきいて、入学志願者が定員を越して集り、昭和十年には在学生四百八十名とをったとのことであった。
 ところが昭和九年暮に学生達は、専門学校には、いつ昇格してくれるのかと、北校長に要望書を提出した。
 そのために北さんは電報で私を呼んでこのことについて相談されたが、私も四年前に北さんに進言したことをすっかり忘れていたので全く驚いたが、私は北さんと一緒に善隣協会の佐島啓介氏を訪ねて専門学校昇格基本金十万円の借入れを申入れたところ、佐島氏は望月軍四郎氏を紹介してくれたが、望月氏は大阪で急死されたので、望月氏に逢う機会は得られなかった。
 そこで大倉善七郎氏や米山梅吉氏等に基本金借入れの申入れをしたが、何れも不成功に終った。
 ついに東横社長五島慶太氏に基本金の借入れを申入れたところ「東横沿線に学校を移転するをらば基本金十万円と校舎建築資金全額を貸してもよろしい」といったので、早速この条件を承諾して(現在の上野毛校地)土地の賃貸借の仮契約を取交した。
 ところが、学生は東横沿線へ移転しての専門学校昇格ならば反対だといい出した。吉祥寺を離れてまでの学校昇格には反対するということになって、学校昇格促進運動は移転反対運動に変ってしまった。北校長は、現在の吉祥寺校地千五百坪では専門学校校地として狭隘であり、少くとも五千坪の上野毛校地へ移転して専門学校に昇格させてはどうかと学友会委員にはかったが、学生側は移転そのものに反対で、現時点では学校昇格は問題ではないと言張って、遂に物別れとなった。
 この時に当って、事務職員であった太田耕治氏が北校長支持と称して、児島正典、高橋重郎、中村太郎、高島武敏、柴田禎五、鈴木一徳の六名を配下として新撰組というものを組識して移転反対の学生に対し威嚇的行動に出た。これがかえって全学生の反感となって移転反対運動は急テンポにエスカレートして北さんの自宅にまで学生が多数押掛けて移転反対と校長の責任追求をした。学生達は東横本社にも出掛けて行って、東横と北さんとの契約を破棄することを要請した。東横は学校移転が不可能になったのでは仮契約は破棄すると言ってきた。東横との仮契約が破棄されたので北さんは全く窮地に立ってしまった。
 この時学生達に最も信頼されていた井上忻治さんは、北さんの苦衷を学生に伝えて学生達に自重を極力すすめたため、学生達も信頼する井上さんの勧告を信じて一時井上さんにすべてを一任することになったのだが師範科(三年制)卒業生達の反対にあって再び形勢は逆転し、五月十五日に全学生がストに突入することになった。
 ところが反面において北さんに種々雑多のデマや間違った情報が伝えられた。これに激怒した北さんは百名の学生を停学処分に、四十名に退学処分という全く希有の発表を校内に掲示した。
 井上さんは北さんに幾度かその無謀な処分の取消しを申入れたが、太田氏や吉田三郎氏等の言葉を信じていた北さんは遂に井上さんの忠告を斥けて処分の取消しはしなかった。
 井上さんは学生委員達に「自分の力及ばず、北さん説得は一先ず中止する」ことを申渡した。学生達は五月十四日の夜、井上先生に対し、これまでの先生の努力を感謝し、止むなく十五日からストに入ると申し出た。
 私はこの間、井上さんと太田氏の双方の言分を開いていたので、北さんに井上先生の勧告に従うべきだと極力勧めたが、杉浦非水氏、吉田三郎氏、太田耕治氏等の意見に押切られて井上説は破れ、遂に全学ストとなった。学生父兄もまた学校と対立状態となり、北さんはますます窮地に追込まれてしまった。
 この間において校長北昤吉氏に対して校主木下成太郎氏なるもの(代議士で帝国美術学校の設立名儀人)があらわれて「学校はおれのものだ」といい出し、北校長以下二十数名の教員を罷免するということになった。
 私は文部省に赤間専門学務局長を訪ねて木下氏の処置の不当を訊したのに対し、赤間局長は「私学法の不備で止むを得ないことだ。実情は多分、北さんに理はあると思うが、私学は設立者に絶対権があるので校長の罷免も教員の罷免もすべては有効だ」とのことで私は全くの敗北感を抱いて帰った。
 この時点にいたって漸く北さんはその非を悔い井上さんの友情を多とし、太田氏等の無責任をなじったが後の祭りであった。
 当時帝国美術学校には四百八十名の学生が在ったが、その中の八十数名は図案科科長の杉浦非水さんに白紙委任という形をとったにも不拘実際には四十数名の学生に分裂し、彫刻科は三十五名の学生中、児島正典氏一名、日本画科は三十名の学生中、高橋重郎氏一名、油画科は四年生五十数名中二名、三年生六十名中九名、二年生五十名中一名、一年生五十名中一名となり総数四百八十名中僅かに六十四名の学生が北校長を支持するという形に転落した。
 その上また東横からは土地の貸借契約を破棄された。校長は罷免、校名は校主木下氏のものとなり校舎は釘づけ、処分学生は全部木下校主兼校長名儀で取消しとなったのでは如何ともなし難く、北さんは私に何とかならないものかと言われたが、私としても最早や手も足も出ない形となってしまった。
 さきに北校長に井上さんを否定させた杉浦非水氏、太田耕治氏、吉田三郎氏等の面目も丸潰れとなった。
 それでもなお杉浦さんや太田耕治氏、吉田三郎氏等は四十数名の学生と共に帝国美術学校は、北校長とわれわれのものだと言張っていた。
 北さんは「自分が太田耕治君の言葉と新撰組と称する学生の言葉を過信したことが過ちであった。井上君には全く申訳のないことをした」と心から悔恨の情をこめて真情を吐露されたので、つい私もその情にほだされて、何んとか北さんの面子をたてることを考えて見ようと思った。時は正に昭和十年六月であったが、これが多摩美の創設へと連らなる奇縁となったのである。
 そのとき北さんは湯河原に静養中で、学校は昭和十年六月上旬から繰上げ夏季休暇として、今後の対策について考えていくことにした。
 私は東京府知事横山助成氏を訪ねて、帝国美術学校紛争の経過について詳細に報告して何んとか解決策はないものかとたずねた。横山知事も私学法が不備で如何ともしがたい。北さんに気の毒だが知事の権限ではどうにも出来ないことだ。せめて北、木下両氏の仲に立って双方の和解を勧めて見ることしかないと言われたので、北さんの代理をたてて北海道の木下氏にその意を伝えたが、これも不調に終った。かくて帝国美術学校と北さんとの間の争いは校主木下成太郎氏と校長北昤吉氏との間で八年間に亘り法廷で争ったが、遂に昭和十八年に安井誠一郎氏(後の東京都知事)に校舎(七百十坪)を十三万五千円で売渡して、七万円は北昤吉氏に、六万五千円は金原省吾名取堯両氏に渡すこととした。また東亜工学院の校長安井誠一郎氏を一時帝国美術学校の校長兼務し、帝国美術学校の学生募集はこれを中止することを条件として、北、木下両氏間の訴訟は取下げることで和解が成立した。(昭和十八年春早々のことであった)

多摩美創設の準備(一)

 昭和十年の盛夏。旧新宿武蔵野館の真前に、新宿ホテルがあった。そこの二階に二室を借り受けて、多摩美創設の仮事務所を設定した。
 東京府知事横山助成氏が「一先づ新設学校を造って帝国美術学校から分離した教員と学生を収容してはどうか」と助言され、また知事は「木下、北両氏の仲をあっせんして再び両校を合体させるよう努力する」と言われたので、一先づ多摩帝国美術学校という校名で発足することを北さん、井上さん、牧野さんと協議して、申請書を東京府に提出することにした。
 この七月の暑い日に私は「多摩帝国美術学校設立認可申請」という一枚の申請書に、申請人北昤吉として、東京府学務課へ提出した。
 学務課で一枚の申請書だけでは学校認可は出来ませんとことわられた。学校創立には、(一)所有土地の登記簿謄本または土地貸借契約書、(二)基本金、(三)校舎の設計図面、(四)教員組織表、(五)五ヶ年間の学校の予算書、(六)図書その他備品、器具、標本、什器一切の台帳、(七)警視庁衛生局の井戸の水質試験書等々が必要であって、学校認可は早くて半年、永ければ一年、二年はかかるとの話であった。学校の創立はまことに容易なものではないということを始めて知って全く驚いた。而もこれでは六無賽ならぬ七無賽である。
 (一)土地がない、(二)金がない、(三)校舎がない、(四)教員はそろわない、(五)五ヶ月年間の予算書の作り方も知らない、(六)図書、備品の台帳もない、(七)水質試験書もない。まったく困りはてた。そこで学校を繰上げ休暇として、残留教員と学生に、九月六日に開校するから上野毛校地へ集合することを宣言したのである。
 北さんも私も実に途方に暮れてしまった。北さんは「面子も何にもいらない。私は学校なんか止してしまう」と言い出した。こうなっては如何せんである。私は三十二才の血気盛んな時ではあったが、北さんが止すというのに、私一人が頑張るなどとても不可能だと一旦はあきらめたのだが、北さんを信じて上野毛移転に賛成した教員や学生を裏切ることになるのは何んとしても忍びないことである。成る成らんは後のことで、とにかく努力だけはしてみなければと心に決めた。
 先づ東横本社に小林清雄支配人を訪ねて、北さんを支持してきた教員と学生のために、また東横が沿線開発のために学校誘致を企図した計画にそうて、上野毛の土地五千四百坪の再契約をしてくれるように懇請してみた。小林氏は「五島社長が何んといわれるか、私の一存では返事は出来ない」といわれたので、翌早朝六時に渋谷の五島慶太氏の私邸を訪ねたところ、等々力のゴルフ場へ出掛けられたとのことで、すぐゴルフ場までかけつけて上野毛の土地の再契約を懇請した。
 五島氏は小林氏とよく話して見給えとのことであったので、その後は専ら小林支配人を相手として交渉を続けた。東横側の条件は第一は学校認可をとりつけること、第二は校舎建築資金の頭金として一万五千円也を現金で本社へ届けること。この二つが出来たところで土地契約を考慮しようということになった。
 東横からは学校設立認可が第一条件だといわれるし、東京府から学校認可には校地が第一条件だといわれるので全くここに進退きわまったのである。
 しかし何んとかこの難関を乗りきらなければ今日までの労苦も水の泡である。遂に意を決して横山知事に直接ぶつかって見るより外に道はないと決心した。そこで知事に会って「学校認可の暁には必ず東横との間で土地契約を取交して、知事にご迷惑はかけませんから校地に関しては東横の覚書で申請書を受理していただきたい」と懇請した。
 知事は、よくわかるが学務課が事務処理上それは無理というだろうが、一応学務課に話してみようといってくれた。
 そこで東横の小林支配人に「学校が認可になった節は、土地は必ず校地として北さんと再契約をする」という覚書を書いてもらいたいと頼み込んだ。小林氏は覚書を出すことは容易いことだが、東京府がそんな覚書で学校の認可を出しますか」と難色を示した。
 しかし知事が学務課職員を知事室に呼んで認可を出すようにと口添えをしてくれたので、漸く認可の見透しがついたのである。
 この横山助成知事はそれから三十三年過ぎた昭和四十三年四月に本学学長に就任された故石田英一郎博士の義兄であったことが石田学長葬儀の際横山未亡人が石田学長の義姉だと始めて知って奇しき因縁であることに驚いた。
 かくして、ようやくの思いで学校認可の見透しはついたものの素人の私はこのあとどうしたら書類が出来るものやら見当もつかないので実に困ってしまった。
 そこで府の学務課に行って、知事の勧告によって学校を新設するのだから必要な書類について教えて欲しいと頼んだ。そして或る学校の申請書綴を借りて、これを参考に、一週間ばかりで申請書を作り上げた。
 幸い今井兼次先生に学校移転のことで校舎の設計を依頼してあったので、急拠設計変更をして建築図面を完成してもらった。申請書は八月中旬に提出したが認可を九月六日の開校に間に合うようにと無理な要請を知事に申出た。ところが知事は無理を承知で、九月五日の夜、電話で認可書を明六日に知事室へ取りに来いといってくれた。
 昭和十年九月六日に多摩帝国美術学校は認可された。しかるに校舎がないので集合した教員と学生は隣地の田中貞治氏の庭の樹下で、当日北昤吉氏が孔子は樹下に教えを説いたということを例にひいて開校の挨拶を述べた。
 正に多摩美術大学は、この日、この時、この地に発祥したのである。集った教員は、北昤吉、井上忻治、牧野虎雄杉浦非水吉田三郎佐々木大樹、大隅為三、森田亀之助、渡辺素舟鈴木誠の諸氏であった。学生は僅かに四十数名に過ぎなかった。最初予定された二百名の学生の半数にも足らない集りとなってしまった。
 しかも東横とは校地の再契約や校舎建築資金の借入についてもさらに交渉を続けなければならない状態であったのである。
                                  
多摩美創設の準備 
 昭和十年九月が創立日となった多摩帝国美術学校という名の学校は実に変則的に誕生したいわば未熟児にひとしい学校であった。校長問題といい、また校名といい、むづかしい問題をかかえていたからである。
 とにかく校名はやがて帝国美術学校と合併することを予定して新設したのだが、上に多摩の二字をつけて、合併の節は多摩の二字をとろうということで決定した。しかるに両校はついに合併することもなく、戦後かえって帝国の二字を削除して多摩美術大学となり、帝国美術は武蔵野美術と改名されたのである。また、校長問題であるが、北昤吉氏が「私は帝国美術学校の校長としてこの不始末をしでかした責任上新しい学校の校長は辞退する」といって、井上忻治さんに校長を願うといい出した。
 井上さんは「とんでもない、私は校長なんかという柄ではないから絶対受けない。校長になれというならいますぐに学校を止さしてもらう」と言張って承知しない。では牧野虎雄さんにと北さんから懇請した。
 牧野さんは「へへー、校長。いやーなこった。わしは学校を止します」といって聞かない。では選挙できめたらと北さんが言出したが、牧野さんは「井上さんがいやというのでは選挙したい人は一人もいないから、それは止したほうがよい」といい出してどうにもまとまらない。
 そこで北さんは「二年間の持廻りということで、第一回を最年長者の杉浦さんにお願いしては」といい出した。吉田三郎氏は「第二回目は牧野虎雄さんと決めてのことなら賛成する」といい出した。牧野さんは「二回目でも三回目でも、校長ということなら、いますぐ学校を止させてもらう」といってきかない。
 では二回目はその時になってまた新たに決めることとして、とにかく第一回目校長を杉浦非水さんと決めては如何かと私が提案した。杉浦さんは井上忻治先生が補けてくれるなら校長を引受けてもよいといわれた。井上さんも止むなく杉浦さんの相談にはのりましょうということで、漸く校長は二年間の持廻りということに落ついた。このことは新宿ホテルの仮設事務所での八月十日のことである。
 これで校名と校長が決ったのだが肝心の校舎がない。そこで今井兼次先生の設計図面を修正して、清水組の井上建築部長に、出来高払いという今井さんからの口添えで契約が成立した。これが十年八月二十日のことであった。しかし建築費の出どころがない。東横本社の小林清雄支配人に、五島さんに是非建築費の貸出しを頼んでもらいたいと頼みこんだところ、現金一万五千円を頭金として本社へ納めるなら建築費は貸すことにしようといった。ところが頭金一万五千円を作ることがこれまた容易なことではない。私は全く昭和九年以来いかに郷の先輩である北さんのためとはいえ、一体何の因果でこんな苦労をしなければならないのか、われながら不思議に思った。
 私はこんなことで度々井上さんにくどきごとをいったが、その都度井上さんは「私も北君との腐れ縁でこんなをことになって弱っているのです。私の学究生活は目茶苦茶になってしまったし、といっていまさら、このことから手をひいたのでは北君との友情に反することになるので全く弱っているのです。あなたにも全く気の毒だとは思いますが、いま暫く目鼻のつくまで、北君のために辛抱して下さい」といわれるので、因縁というのか腐れ縁といのうか、そのくせ北さん自身は校長にはならない、借金の責任は負わない、全く得な人といえば得な人であるが、こんな無責任な話はないのである。もっとも東横の五島さんが「北君は食言ばかりしているから北君との対での話はことわる」といっているのでこれも仕方がない話ではあるが実に困り果てたのである。
 そこで建築費の頭金一万五千円のことだが、佐々木武行という人の口ききで、当時アメリカで日本人二世の歌手として有名であった川端フミ子さんの父親から五千円小切手で貸してもらい、荏原製作所の常務酒井億尋氏から三千円、牧野虎雄さんの油画を満鉄本社へ売込みに行って三千円、永見某氏に牧野さんの画一点一千円で買ってもらって漸く一万二千円だけを約束の期日の正午に東横の小林氏のところに持込んで、残り三千円はあと三日待って欲しいと頼込んだ。小林氏はこれだけで後はよろしい。建築費は東横が代払いしてやるといってくれたので、漸く一安堵した。
 土地契約も建築契約も出来たので、八月二十日に正規の学校認可申請書を東京府に提出した。
 次に井戸水の試験のことについての思出であるが、全く滑稽であった。実は学校の井戸水は学校認可の第一条件ときかされて、何処でどう試験してもらえばよいのかさえ見当がつかない。結局警視庁の衛生試験所の試験表が入用だとのことなので、本校の隣地の井戸水がこの附近の最上の水だと開いて、そこの水を一升瓶に詰めて、それを私が封印して村田の認印を押して警視庁の衛生試験所長の菅沼三郎氏の所へ持込み、水質の試験をして欲しいと頼みこんだ。
 所長は笑って、「この水は学校予定地の水か、水道の水か、そこら辺りの水質のよい井戸水か判らないではありませんか。試験所では、この水質の試験表は出せませんよ」といわれた。そして 「まづ、あなたの学校の所管警察署へ水質試験届を出しなさい。警察から警官二人が学校へ行って試験をする井戸水を瓶詰にして封印の上所管署から衛生試験所へ、試験届書をつけて持って来ますよ。それを試験して、試験表を警察へ返すのです。警察署から学校へそれを届けるのです。一週間とか二週間と日をきられては困ります。少くとも一ヶ月は待って下さい」といわれた。そこで申請書には東京府水道使用と書いて出すことにした。二十四日に府の学務課から二人の役人が実地調査に来たので、此処が予定地ですと案内したが、校地予定地には縄張りしかしてない。井戸はと問われて「東京府水道を使用します」と答えた。水道は何時ひけますかとの質問にも、開校までには出来るといって、ごまかしてしまった。何から何までが急場の弁慶の勧進帳もどきであった。この勧進帳もどきが本学のお家芸のようになって、昭和三十九年の大学院認可まで続いたということも因縁ごとか。私はこの勧進帳式は早くやめたいと努力を重ねてきたつもりではあるが、現実と理想とは仲々一致しないものである。
 斯くして九月六日の設立認可は府知事からおりるにはおりたが校舎は十一月末に完成する予定だったから授業は十一月末まで千駄ヶ谷の北さんの雑誌社(三階建の元医院であった個人住宅)を仮の校舎に使用することにして九月二十日過ぎから六十八名の学生を対象に授業を始めた。授業といっても名ばかりで、三階をデッサン室に、二階を学科教室と図案科実技室に当てたが、先生も学生も毎日雑談会ばかりである。これが今でいう「ゼミ」の形式かも知れない。
 こんなことでニヶ月余りはごまかしていたが、漸く十一月二十日過ぎに上野毛の校地に木造二階建亜鉛葺片流の瀟酒な実習教室二棟と学科教室を含む本館一棟計七百二十坪の校舎が出来上った。十二月一日から上野毛校地で授業開始と定って、十一月末から引越しやら内部教室等の整理で大忙殺となった。
 十二月一日は開校記念日として大祝賀会の準備もした。
 学生定員五百名を予定しての校舎七百二十坪の学校で、僅か六十八名の学生では子供が大人の洋服を着たようであった。
 日本画科が一年生から五年生までの学生数は高橋重郎たったの一名、油画料が一年生一名、二年生一名、三年生九名、四年生十一名、五年生二名計二十四名、彫刻科が全クラスで児島正典一名、後に一年生に坂手壌、竹内二名、二年生に安江敏、堀義雄の二名が転入学して計五名、図案科が一年生から五年生まで計四十二名という実に寒々とした学校風景であった。しかし十二月一日の開校記念日は大張り切りで、マイクを借入れて、おでん屋や喫茶店等の業者が自由が丘から出張っての賑やかさであり、また絵馬の即売店が開かれて教師や学生の絵馬がよく売れた。
 また彫刻科の(後で転入学の二年生)安江敏、堀義雄の両君が二子玉川の芸者に習ったという安来節、踊りも出て全く立派な学園祭風景となった。私はこれでよかったと一安堵した。夕方からは生憎雨になったが上野毛の校舎から駅前を通って稲荷坂から二子玉川の料亭「水光亭」まで提灯行列をした。学生も先生もずぶ濡れになったが、みんな元気一杯で開校を祝っての祝宴会は一層の興を増して今なお忘れ難い思い出となった。
 開校時の教員組織は校長兼図案(主任)杉浦非水、小川倩葮、新井泉、染の木村和一、日本画科は安田靭彦先生を顧問、(主任)中村岳陵、山村耕花、郷倉千靭、助教授吉田澄舟、油画料(主任)牧野虎雄、大久保作次郎、木村荘八、吉村芳松、鈴木誠、長屋勇、彫刻科(主任)吉田三郎、佐々木大樹(木彫)、油画科助手皆見鵬三、図案科助手野津憲之丞。
 学科井上忻治、三木清、森田亀之助、大隅為三、渡辺素舟、今井兼次、逸見梅栄の諸氏であった。帝国美術学校の事務職員太田耕治氏は油画科、図案科全学生からの排斥申出があったので、北さんは「私もこんどの学校には参加しないから君も学校へは行かないことにし給え」と言渡されて、太田氏は不参加となった。
 学校が認可となった暁は、私は不参加を予定していたのに、太田氏が不参加のため、かえって私は、教務、庶務、会計三課とさらに学生監をも兼務させられるはめになった。また一つには徴兵猶予の特典を新たに得なければならなかったためからでもあった。
 ところが経理についていえば不足金の出処はどこにもない。従って牧野虎雄さんの画を借りて、これを売り歩いて不足経済を賄って年越しをしたものである。牧野先生も心よく絵を借してくれて、三分の一は学校へ寄附、三分の一は学校へ貸金として据おくこと。三分の一だけは先生に手渡すこととしたのである。その後昭和十八年に昭和医大の上条氏から二十万円を借入れて、東急との借金の肩替りをした時、確か一万二千円を牧野先生に返還したのである。
 昭和十年に学生六十八名でスタートした多摩帝国美術学校は毎年入学生は定員に満たず昭和十八年の四月において全学生数百八十名になったことがあるだけで二百名に達したことは一度もなかった。しかし校舎に余裕があったので、昭和十一年十月に女子部の認可を受けて、男女共学を企図したが、女子部の併設は許されず、女子部は独立して校舎を使用すること、また登校口も便所も別にすることを条件として認可された。そこで廊下の真中に木柵を立てて右と左の通行としたが思えば滑稽な話である。しかし木柵は直ぐに撤去し、実際には男女共学を実施していたのである。但し学籍簿だけは男子と女子は別々にしておいた。
 なお男子学生の少なかった原因には、わが国が戦時体制に入る形勢が強くなったためがある。即ち昭和七年に松岡洋右氏が国際会議全権としてジュネーブの国連本部においてわが国が満州事変の責任を各国から問われたのに対して、「十字架上の日本」と題して「世界を相手にして戦うことも辞せず」と大見得を切って国連を脱退して世界の孤児となったことから、軍部はやんやの喝釆を拍して、わが国の世論をあふり立て、満州の権益を掌握し、さらに北支をも押えて全支を支配しようというとんでもない大それたことを計画し、これこそ明治以来の日本の大陸政策だなどとまことしやかに喧伝した軍部と呼応して久原房之助や鮎川義介等の長州閥による財界人、政治家等の日本の社会政策も教育政策もすべてを挙げて軍事政策に切換えて行ったことに災いされたのである。
 かくて美術学校などという「自由主義の温床はたたきつぶせ」「自由主義者三木清を学校から追出せ」「長髪族を征伐せよ」「この重大時局に女を裸にしてのモデル使用などは以っての外で許せない」といわれ、また校内外に於ける展覧会にも検閲があって、警視庁及び所管警察から警官が来て、下見をして、全裸は勿論、半裸体も乳房を画いた絵も撤去させられたものである。

創設時における上野毛町周辺の状況
 
 昭和十年に開設された本学の発祥地、世田谷区上野毛町や附近の状況などについて述べておこう。
 当時の上野毛町には東横の大井町線が終点二子玉川駅まで通ってはいたが、電車は一輛の二十分間隔であった。自由が丘駅は東横が開発に力を入れて、自由が丘、田園調布には有名人に無料で土地を提供して家を建ててもらって町造りをしただけあって、渋谷からここまでの乗降客は、とにかくあったにはあったが、夜間は非常に少なかった。しかし大井町線は自由が丘で客が降りると上野毛まで乗る人は二、三人しかいない。夜は全くの空車か私一人の貸切電車といった形であって、夜は女、子供はとても一人乗りなど心もとなくて乗れないのが実状であった。
 ホームはあったが駅がなく、ホームからは丸太の手摺の階段で、切符は電車の中で降りる前に車掌にわたすのである。ところが本学が出来てから、学生は五銭の乗車券を渋谷で買ったきり、その切符をまた渋谷駅で下車のときに改札口に渡して帰るというきせる乗りの手口で往復五銭の乗車賃で通学するという結構な一時代をつくった。東横もあわてて上野毛駅を急造して改札口を設けたものである。
 上野毛駅から学校までの間、東側に家が四軒、西側に三軒しかない。残りは全部畑である。学校も畑のど真中で木一本ない。しかし小道を隔てた東側は大きな杉林になっていて、しかも三宿の世田谷野砲聯隊の演習地で、騎馬隊三、四十名が林の中へ入ってかくれると馬も兵隊も見えない。今では全く想像もつかないことである。
 現在の玉川電車は二子玉川から溝の口まで延びていて、渋谷までの砂利運搬電車であった。しかも三軒茶屋から玉川までの間は竹薮と畑の連続で、その間に藁屋根が点々とあったものである。三宿を中心に三軒茶屋などは馬具や兵隊さんの乗馬用品のみせ屋ばかりであったのである。
 学校の西隣りは小道を隔てて瀬田村で、家一軒もない黄一色の菜種畑である。学校の裏の丘陵地帯は都の風致地区として、百種類以上の野鳥が群れ集る特別地域であった。また丘陵からは兎が時々校庭に出て来ては学生等に捕えられていた。さらに裏の坂道を下れば玉川土提までは一面の桃畑で、桃の木の下は全部が苺畑であり、都内から集団で苺狩りに来たものであって、玉川の桃と苺狩りは東京の名物の一つでもあった。また玉川の鮎は「玉川の鮎を食べないでは江戸ッ子とはいえない」と昔から伝えられていた程有名なものであって、昭和十年頃は鮎釣り、投網、屋形船も名物の一つになっていた。学校に鮎釣会や投網会が出来て、川原で鮎の塩焼きを川水でよく冷えたピールで一杯やったことも今は遠い思い出の一つである。
 木一本ない畑の中のストリップの校舎三棟は今井兼次先生設計のしかも片流の瀟洒な校舎は流石に美術学校だと大変評判になったが、学校前の道路は車一台も通らないというような静かな淋しい処であったから、上野毛という地名も多摩美術学校という学校も都内では通用しない。だから夜は円タクは決して上野毛までは行ってはくれない。終戦後でさえ往復の車代千円を出して、漸く乗せてもらったのである。それが戦後数年して学校の裏へ江利チエミ、美空ひばり、淡島千景等が来て、さらに島津貴子さんが来てからは一躍東京の高級住宅地になった。
 学校は創立以来年々校舎並びに校地の周辺に銀杏の苗木五、六百本(高円寺の某氏の寄贈によるもの)、欅と槐の苗木五十本(東京都植樹会より寄贈されたもの)、栃木県営林局より買入れた桐の苗木六十本を校地の周辺に植えたのが幸い戦後十年を経たころには全部が大木となって校舎を緑でつつんでくれた。また学校は躑躅三百株(埼玉県安行から移植したもの)を植込んだのが、戦時中から「つつじの学校」という評判をとって周辺から躑躅見物に来るようになった。ところがオリンピックのため環状八号道路計画のために前庭五百坪ばかりが削りとられて、道路面にまたしても校舎はストリップの姿を露呈するはめになった。本学は騒音と公害になやまされる始末となったが、私はすでに昭和三十四年にこのことのあるを予見して八王子に一万坪の校地を求める計画を建てたのである。
 一方、昭和三十九年のオリンピック道路計画に伴う本学の前庭削除に対し、公害と騒音防止のため全校舎を二重窓にして完全冷暖房施設にしたいからその経費五千万円を補償して欲しいと都へ申出たのだが、都は「文化施設に対して公害と騒音防止を補償する法規がないから補償することは出来ない」と拒否された。
 当時の東京都は法規法令にとらわれて公害と騒音の防止に進んで措置をとれないというので、止むなく東京地方裁判所に三十九年に都を相手とって行政訴訟を提起したのであるが、八年を経過した今日未だに裁判所も東京都もこれに対する結論は出さないのである。
 然るに今や人命尊重の立前から、昭和四十七年六月ストックホルムにおいて開催された人間環境を守る国際会議が開催されるまでに発展した現在、私は本学のこの行政訴訟の成行に大きな関心をもっているのである。
     
昭和十一年の記

 正月元日に北昤吉さんから「自分は多摩帝国美術学校長を退いたのだから、衆議院議員に出たいと思うのだが」との話があった。私は「校長は辞めても雑誌社の社長をやっているのだから、雑誌社に専念しては如何ですか。普選第一回の昭和五年に東京都から立候補して惨敗した苦い経験もあるのでよした方がよいのではないですか」と忠告したが、是非出てみると言張るのであった。正月四日に私は北さんと夜行の寝台車で新潟へ向った。水上駅に着いたとき、北さんは寝台車から出て、煙草を吸おうといって喫煙室へ行った。水上駅から一人の素晴しい美人が小母さんを連れて乗込んで喫煙室へ入って来た。寝台が満員なのだろう。北さんは話を打切って煙草ばかりふかしている。私は寝台へもぐりこんだ。
 汽車は長岡駅で停車した。吹雪と積雪のため長岡駅で停車と決って、駅前の大野屋旅館で休憩することにした。朝の四時頃で空はまだ暗い。さきの美人も大野屋へ入った。正午過ぎて一時頃汽車は漸く出るという。私達も乗車した。さきの美人は隣の席だ。女は新潟へ着くと直ぐ迎えの車に乗ってしまった。私達は「小甚」という旅館に入った。
 夜は新潟師範出身の渡辺泰亮氏が来訪して新潟第一区の選挙情勢の分析をしてくれたが皆目判断はつかない。翌日は渡辺氏が校長をしている巻という町へ行き小学校の先生達の会合に北さんと−緒に出席した。そのときの話で新潟師範閥と高田師範閥の争いの中へ巻込まれそうな形勢となった。というのは昭和十年に高田師範が焼けたのを機会に、その復旧の起債を許可しないで、新潟師範一校にまとめるように北さんに大蔵省へ働きかけて欲しい。そうすれば新潟師範卒業生は一体となって北さんを応援するというのであるが、新潟師範閥が応援すれば、高田師範閥は猛反対するだろう。しかも起債問題と師範学校の一県一校に統一するという問題は至難中の至難事だから私はこの案に不賛成であるといって反対して、北さんには一先づ東京へ帰ってもらい、私一人が新潟に残って、情勢分析をして対策を立ててみることにした。しかし当選十三回、当選十一回、当選九回という古強者達を相手にしての戦いであり、その上二十年も郷里を離れていた北さんが、例え弁論の雄と雖も敗色は濃い。併し幸い、新しく北陸に鉄道局が出来るというので新潟市は是非これを新潟へ誘致したいと猛運動をしているとの聞き込みを得た。
 よし、これで勝負を決めるように中央での運動を推進することに決意して帰京した。北さんもこのことに全力を注ぐこととなり、ついに新潟鉄道局実現の可能性がついたので北さんは立候補に踏切った。
 二月二十日の開票で北さんは見事当選して代議士になった。ところが即日から選挙違反の摘発が始った。北さんの身辺にも火がついて、選挙事務長が逮捕されて北さんは当選無効になる可能性が強くなった。さらに困ったことには二十六日に例の二・二六事件が突発した。やがて北さんの実兄一輝が収監された。この上北昤吉が新潟で選挙違反に問われてはと、私は遂に北昤吉さんの身替りになることになり選挙違反事件を買って出た。馬鹿な話であるが、そのときの成行きでは仕方がなかったのである。そのとき病気中の私の祖母と母の容体が悪かったので、家内と子供達は一先づ郷里へ帰したのだが、その後母は危篤状態となりついに三月十四日に亡くなった。この間に於いて私は新潟の未決藍と自宅の間を数回往復した。
 このとき私は学校を止す決心をして井上さんと牧野さんにその旨を伝えたのだが、学生が徴兵猶予の特典がないことで騒いでいるから、この間題だけを何んとか片付けて欲しいから上京するようにと両先生から手紙で頼まれたので、再び単身上京して陸軍省にお百度を踏んで嘆願これ努めた。しかし十一年度中には認可とはならず、転入学した学生達はみを徴兵検査を受けて兵隊に行くことになった。止むなく再び学校に止どまって、十二年度中には改めて徴兵猶予の認可を得るようにすることを決意したのだが、それには先づ学校は財団法人としての認可を受けなければならないこととなり、基本金として最低三万円の積立金をしなければならないのであった。
 またしても東横の五島慶太さんに頼んで三万円を借り出すより外に道がない。再び東横本社の小林支配人を通じて、五島さんに基本金借入れのことの交渉を始めた。この間の苦労は並大抵のことではなかった。まさに血の出る思いとはこのことかと思った。しかし十月に女子部併設の認可を受けたので、漸くのことで五島さんも表向きは寄附金、裏では年八分の利息付きの貸金ということで三万円の借入れが出来た。そこでこれを基本金としての財団法人として、理事長に東横常務の丹羽武朝、理事に東横の重役杉浦由太郎、学校側からは一名杉浦非水氏を入れた。しかし東横は何時でも法人を解散して、学校を東横のものにすることの出来る形におかれた。
 さきの借地の地代は一年間も支払っていない。さらに十万円の校舎建築費の借入金の利子も払っていない。その上また利息付き三万円の借入れである。「仏の顔も三度まで、ということもあるから、そのつもりでいなさい」と東横本社からはおどかされた。しかし無い袖は振れない。地代も利子も払えない。まして元金においておやである。
 漸く十二年一月三十一日に財団法人の認可がおりて、三月三十日に徴兵猶予の認可がおりた。学生は十二年四月一日から、五年間は徴兵検査を受けなくてもよいことになったので一安心した。

昭和十二年の記

 徴兵猶予の特典を受けるために、陸軍省の徴募課の友森清晴大尉のところへお百度を踏んだ当時のことであるが、友森大尉は二・二六事件の香田、安藤、中野大尉等と親しい間柄であったそうで、多摩の徴兵猶予のことについては特別好意的であった。
 当時は日支事変の起きる直前であったので、文科系学校は「つぶせ」というような傾向も強かったときで、陸軍の鼻息は荒らく、徴兵猶予の特典などを新たに学校へ与えるということは考えられそうもなかったことである。しかるに友森大尉の計らいで、三月三十日にこの特典が多摩に与えられて、四月一日から全学生が徴兵検査は受けなくてもよいことになったのである。
 十一年二月の二・二六事件は当時の一大センセーショナルな大事件であって、青年将校等に対する軍法会議における審理はすべて秘密審理であったので、その審理内容は外部から伺い知ることは到底出来ないことであった。しかも七月五日に青年将校十七名は死刑の宣告を受けて、うち十五名が十二日に死刑執行となったのである。そして村中孝次、磯部浅一両氏は刑の執行が延期されていたのである。
 この村中、磯部の両氏は「北一輝、西田税が首魁か、真崎甚三郎大将が首魁か」、このことについての判決のための参考人として死刑の執行は延期されていたのである。というのは、先きの軍法会議中、磯部、村中両氏が、二・二六事件の首魁は真崎甚三郎であって、北、西田ではないといって獄中で真崎甚三郎大将を告訴したからである。
 さらにこの告訴の中には、当時の戒厳令司令官香椎中将に対して「奉勅命令の伝達がなかったに不拘、われわれ皇動隊を奉勅命令に反するものとして、反乱軍とさせられたが、香椎司令官こそ奉勅命令の伝達違反者である」ということで、香椎司令官をも告訴したのである。
 この軍法会議の秘密が、磯部浅一氏の手記として獄中から、当時の便所の塵紙二十八枚に書かれたものが北昤吉氏に届けられて、これがキャビネの乾板に写しとられて現像されたものが、世上に現われたことから、私は憲兵隊の特高課と警視庁の特高課に追いまわされる身となったのである。
 そのとき私は地下に潜っていながら陸軍省の徴募課へ日参していたのだから、友森大尉の厚意は特別なものであったと思う。またこの地下潜行中、大久保百人町の露地奥に荒畑寒村氏がいたが、当時刑事二名が寒村氏を監視するために露地口に立ん坊していたのに、私はその寒村氏の家の斜す向いの家に潜入していて出歩いていたのであるが、大物の寒村氏にのみ注視していたものか、かえって私は安全であった。
 なお国技館の初場所に私は相撲見物に行っていたとき、場内アナウンスで「美術学校の村田さん木戸までお出で下さい」と呼ばれたが、私は上野の美術の森田さんのことかと思って木戸へは行かなった。相撲がすんで木戸口で学校の職員の皆見君が「危いから逃げて下さい」といったので、私は咄嗟にしゃがんで木戸口から逃げ出した。私は背が高いので、憲兵の特高は見落したものと思う。
 また、北昤吉氏の自宅に連絡に行ったとき、杉並署の特高の高橋刑事が「村田さん、よいところで会った。あなたに対する逮捕状が出ているから、警察に来て下さい」といったので、「いや、会わなかったことにしてくれ」といって私は北家を飛出した。
 一月の国会では、予算会議に秘密会を要求して、獄中からの磯部氏の手記について、陸軍大臣に北代議士が質問するということで、政党人間では評判になっていたが、その前日の本会議において、浜田国松代議士が、寺内陸軍大臣に対する質問中、軍を侮辱したということで、寺内大将が浜田代議士を詰問したことから浜田代議士は「私の質間中に軍を侮辱した個所があれば、私は腹を切って見せる」という大見得を切ったあの有名な浜田代議士の腹切り問答があって、議場は騒然となり、国会は三日間の休会となったのである。私はこのとき国会の傍聴席でこれを目撃していたが、休会の宣言と時に人ごみを利用して虎口を脱した。この国会二日間の停会中に「軍は北一輝は絶対に死刑にはしない」という杉山参謀次長の謀略にかかって、ついに磯部氏の獄中手記は軍部にまき上げられてしまったのである。しかるに八月十四日北一輝は死刑の宣告を受けて、十九日に死刑を執行されたのである。
 私は三月に母が亡くなり、八十四才の祖母がまだ中風で寝たきりなので、家内と子供を郷里に帰していたから、八月中は郷里の佐渡へ帰って居た。
 八月十四日に北一輝死刑の号外をみて仰天した。丁度一輝さんの佐渡の生家に一輝さんの実母の「りん」さんが帰郷中であったので、直ちにお母さんのところへ車でかけつけた。
 そこへ北昤吉氏から「兄との面会が許されたから母を東京へたたせよ」と電報が来た。私がそれをお母さんに話したところ「いや、わしは行かない」といって土間に蓆をしいて、横になって夏の涼を入れた。ところが「いや、村田さん、わしは東京へ行く、供はつけなでくれ」というのである。
 一輝さんの生家の港町では号外を見た全町の人々が内証で北家の菩堤寺へ続々集って坊さんに読経を頼んでいるということである。
 北一輝に対する町の人々は偉人、英雄の扱いである。しかるに警察は大謀反人として北家への出入りは差し止めるとのお達しである。私一人が船場まで実母を送りに出た。翌早朝、東京荻窪の北昤吉さんの家に着いたお母さんに、昤吉さんが「お母さん実は」といったら「昤、何も言わないでよい。わしは知っている」といって帯の間から一輝さん死刑の号外を出したとのことである。
 昤吉さんは十六日に「母と昤吉さんの二人だけを一輝さんに面会させる許可が出た」ということを話しして、面会に行くことをお母さんに勧めたところ「昤、お前一人で行け、わしは行かない」といってついに行かなかったのである。母として、死に行くわが子に会いたくない筈はないのである。思うに若くして革命に身を投じ、意志とちがって敗れて死に行く人に悲しみを見せたくないと思う親心であったろうと思うのである。その後私は東京でお母さんに会ったとき「輝はしたいことをして死んだのだから倖せ者さ、あれの父は五十才で死んだのに父より三年も永生きしたし、何も言うことはないさ」といって涙一つ見せない。そして黄興や宗教仁等支那の革命の志士達が、若い日の一輝さん等の戸塚の家に遊びに来て、朝から鯉を油で煮て困ったなどと話しをしてくれた。
 お母さんは非常に気丈夫な人であって、何事にも、くどき事や愚痴めいたことは一つも言わない人であった。昤吉さんが一輝さんに面会のとき「兄貴、日支事変がおきたよ」といったら「困ったことになったものだ」と答えたという。また一輝さんは「家へ出入りした若い人達が、皆死んだので、おれも死んで帰れば満足だよ」といって笑ったということを昤吉さんから聞いた。
 二・二六事件の青年将校達も、北一輝や西田税も日支事変や大陸政策などの愚策は思慮にはもってはいなかったのである。さきにも述べた長州閥による陸軍の寺内寿一大将、政界の松岡洋右、岸信介、財界の久原房之助、鮎川義介等による満洲の権益及び北支の支配権、延いてはアジア全域への野望とが大東亜戦争にまで発展したのであって、これを北一輝のアジア政策に結びつけることは最も危険な歴史観である。
 北一輝はかつて異民族が異民族を征服してはいかん。征服された異民族は、必ず征服者に報復するから、やはり民族自決であるべきで、日本が朝鮮を合併したことは間違いであると喝破したのである。
 これらのことは学校の建設とは全く縁のない事であるが、学校建設途上における私の生涯の中で忘れることの出来ない事柄であって、私がもし学校に関係しなかったなら或はこの半面の方向に終始していたかも知れないので、記しておくこととしたのである。
 この年十月に東京府学務課から、「多摩美術学校はお隣りの守屋東さんに学校を譲渡するのですか」と藪から棒に聞かれた。「とんでもない。学校等は売りませんよ」と答えたら「でも東星学園女学校がお宅の土地を校地とすることを地主田中という人との間に、土地の賃貸契約が出来たという届が出ています」というのである。それは全くの事実無根であって、本校の承諾を添付するよう学務課から東星学園へ要請して欲しいといって帰った。
 東星学園(後の大東学園)は運動場を持たない学校であったのに、学校認可は全くナンセンスである。その後守屋東さんから、度々運動場を共使用にして欲しいと申込まれたが、その都度お断りした。
 昭和四十五年に大東学園はほんの一部を残して校舎の九割方が土地会社の所有となって元の校舎は全部撤去された。四十六年春に高層なマンションがその土地会社の手で建てられた。何んでも学内の内輪もめが原因で訴訟にまで発展して土地会社に校地を取られたのだそうである。お蔭で本学も高層マンションのために環境は著しく悪くなった。

昭和十三年の記

 昭和十三年四月に東横本社から、地代も利子も払えないようなら学校を東横へ渡せといって来た。学校は財団法人になって、役員は東横に押えられているのである。
 東横が取ると言出せば処置なしといった形になっている。創立四年にして学校を潰ぶされるのはつらい。止むなく五島慶太氏と大学期という、時の大審院判事三宅正太郎氏を訪ねて、多摩美を存続させて貰うように五島さんに話して欲しいと懇請した。三宅さんは、「五島君は事業家だから、ソロバンに合わないことは出来ないといわれるかも知れない。専務の篠原三千郎君も私と期だから、五島君より話し易いので、篠原君に話をしてみよう」といってくれた。やがて東横本社から電話で一寸来いというので、本社へ出向いたところ、黒川開発課長が「ひどい。三宅さんの所にまで行ったんですか。とにかく、三宅さんからの話だから学校はこのままにするが、地代と利子位のことは考えて貰いたい」と強く言われた。
 このとき若し東横の圧力に屈していたら多摩美は廃校となり、東横女子商業学校が上野毛に創設された筈である。
 ほんとうに多摩美の危機であった。
 その後東横本社では現在の等々力に女子の商業学校を創設して翌十四年四月一日に開校したのである。東横百貨店の女子店員を養成することが目的であった。
 ところが、一難去ってまた一難、年九月一日の台風で本校の全校舎三棟の屋根が吹き飛ばされた。豪雨を伴っての台風であったので、屋根のない天井裏は盥然に水が一杯溜って、天井の漆喰は水の重みで落ちそうである。天井の漆喰を棒で突いて水を二階の床に受けたが、水を受け入れるだけの桶もばけつも足りない。全職員が水がい人足となって、雨水を窓から校舎外へ捨てることに懸命あった。その夜は、かけつけてくれた学生達と共に徹夜で、飛散った亜鉛板の見張りをした。
 さてこの復旧をどうするかがまた一苦労だ。とにかく復旧工事は業者の清水組に依頼することにして復旧はしたが工事費がない。しかし災難だからということで、またぞろ東横に頼みこんだところ、案外こんどは、さきの篠原専務が工事費は貸してはどうかと言ってくれたので、五千円の工事費は清水組に支払った。五千円といっても当時の五千円は今の五千万円位の金である。災難とはいえ、多摩美はよくよく恵まれない学校だとつくづく思った。こんなことで、この年はくさり切って年を越した。

昭和十四年のx記

 昭和十三年の暮れからくさりきっていた私に、中支那へ行ってくれないかという人があったので、渡りに舟と、十四年の三月限りで学校を去る決心をして、井上さん、牧野さんにその話をしたところ、この上あなたを引止めることも出来ないことだ。戦時色は濃くなるばかりで、学校の将来にも明るい見通しもないから、今年の応募学生数を見た上で皆で考えようということになったので、私も上海行きについて考えながら、誘った人に四月に返事をすることにしていた。何時の間にかこの話が学内に洩れて、村田に不正行為があるので、支那へ逃げ出すそうだという噂が流れた。
 油科学生数名が彫刻科助手児島正典をなぐるといって追い廻しているということを聞いた。私がこの話の真相を訊してみたら、矢張り彫刻科の学生間に流布された噂に、油科の学生達が怒っての行動だとのことである。矢張り学校移転のときのしこりが出て来たなと思って、井上さん、牧野さんにこのことを話したところ牧野さんは「井上、牧野、村田三人は一連托生を誓っているのだから、村田を誹謗することは、井上、牧野を誹謗することになるのだ。許さない」と怒って、この噂を流した者は全部学校を去って貰うというようなことになった。彫刻科の主任教授吉田三郎さんが杉浦非水さんを伴って牧野さんを訪ねて「彫刻科から出た噂だから彫刻科で処置したい」と申出て、助手の児島正典を私のところへわびに来させて辞表を提出させた。これにて一件は落着したが、私自身はかえって、上海へ行くことが出来なくなったのだが、井上、牧野両先生から七、八月の二月だけ上海へ遊びに行って来いということになり、九月には必ず帰るという条件付きで、しかも牧野さんから絵を一枚餞別に貰ったので、何んとも仕方なくなり、上海へ遊びに行くことにした。
 七月十一日から夏期休暇に入ったので、七月十一日東京をたって福岡へ行き、川内親という学生の案内で大分県中津の福沢諭吉先生の生家を見て、耶馬渓に出て一ときを過し、夏の涼をとった。「青の洞門」を見たとき、人間一人の努力と精根が、この難所を切り開いて幾百、幾千の人命を水難から救ったことに驚嘆したが、時に私自身の学校への非力を反省した。当日は日田の盆地に一泊して筑後川の鵜飼を見ながら鮎料理を満喫した。翌日は久留米市へ出て球磨川の鮎料理に食傷して、長崎市に行き一泊して上海行きの船に乗った。
 上海の思出はまことに尽きない。良いことと悪いことが交互にあって、日支事変の敗色はこのとき既に感じられた。上海の郊外は一人歩きは出来ない。日本人は畑の中で耳を削がれ、鼻を削がれて脳天を鈍器で割られて殺されている。上海租界は日本人は入れない。入れば支那人テロに殺される。デパートでは支那語で話さなければ、何にも売ってはくれない。排日が徹底していて女店員は口もきいてはくれないのである。それでも軍人は威張り散らしている。私は背広を着て行ったので、日本の兵隊さんに意地悪されて散々な目にあった。こんな奴等に慰問袋なんか送るのではなかったと思った。私が上海へ行ったと聞いて、徴募課の友森少佐は名刺の紹介状を二十枚ばかり飛行機で送ってくれたが、一枚も使わずに持帰って、友森さんに返した。友森さんは「何故使わなかったのか、佐官待遇で危険な所へ行くときは一個少隊はつけてくれたのに」といわれた。
 私は「使いませんでした。上海辺りの後方の兵隊は余りにひどい。私達日本人でも刀を吊っていないと一旗組と勘ぐってひどい仕打ちです。私は上海の人込みの中で、「非国民、それでも日本人か、とどなられた」といって憤慨をぶちまけたら、友森さんも困ったものだといわれた。
 そのくせ、軍人の真似をしてカーキ色の服を着て、日本刀を吊っている宣撫班と称する人達は大きな支那人の家を占拠してメードを二、三人も使っている。
 アメリカさんが戦後日本人の邸宅を占拠していたのと様である。東京に居れば警視庁に宣撫されていた人達二千人もが、支那へ行って宣撫班になったのだという。人心の安らぎなどある筈がない。大東亜戦争になってからフィリピンに文化人として派遣された三木清さんから、ハガキで「日本の宣撫工作には飽きれたから直ぐ帰る。帰ってからよく話をする」といって来たが、私は上海のときすでに宣撫工作に飽きれはてていたのである。
 重慶から逃亡した汪兆銘を首班とする擬装政権が軍部の手で上海に作られて、上海市政府も出来た。私は支那の要人と市政府で会ったとき、要人達は租界の塩税は全部重慶へ行く。上海市政府には金は何処からも来ない。日本軍はわれわれを傀儡政権として利用だけしているとぼやいていた。
 当時のお巡りさんの給料までもが上海にあった日本人のバクチ場からの揚り金で支払われていたことを知ったが占領政策などは何にもないのだ。やらずぶったぐりが軍の政策と見れば間違いなかった。
 このことを東京へ帰ったとき友森少佐に話をして私への紹介名刺を全部返したのである。
 友森さんは直ぐ飛行機で上海へ行くといっていたが、「支那人は矢張り大国人ですねェ、日本人には真似の出来ない大人の風格がありますねェ」といわれた。私はかつて、天津の或る支那人が「日本人はバクチを知らない民族だから、支那と戦争したら最後には敗ける。日本人はバクチで敗ければ敗けたで女房、娘まで売って賭ける。勝って引く潮時を知らないからバクチの国、支那には勝てない」といったという話をしたら友森さんも「その通りです」と撫然とした。
 上海での思出にはこんなこともあった。或る支那人の青年実業家二人が私と私の友人とを四川料理に招待してくれたのである。四川料理は中華料理では最上のものだとのことであった。しかし、その料亭へ入るのには車を料亭の玄関に横着けにして車から飛び込めといわれ、便所へ行くときも誰れか味方が一人後について行かなければ危険だというのである。それ程日本人に対し、上海は排日のテロが盛んなのであった。
 その料亭で美人十人ばかりが出て来て至れり尽せりのサービスである。支那人は人を遇することは天才的であるから排日的でない所へ行けば日本人志よりも親切である。いい気になって腹一杯御馳走になったとき、更に二人のとても素晴しい美人が現われて、招待者の支那人二人の横にすわった。われわれ日本人の招待客には目もくれない。またしても排日美人かと思った。この二人の美人の出現で先程からの十人ばかりの美人は口もきかなくなった。一体どういうことなのかと支那の人に聞いたら、この二人がほんとうの上海の芸者で、先に来ている人達はステッキガールだという(今のホステスのことだろうと思う)。二人の支那の実業家は日本語がとても上手なので、話すことに不自由はなかったから、色々とたずねたのだが、上海の芸者は主人以外の人には絶対に笑みも見せない、お酌もしない、煙草の火もつけてはくれない、御主人第一主義の東洋的保守の権化であるとのことだ。芸者は銘々屋形を構えて、そこに主人が出向いてお客を招待し、徹夜で麻雀をやって、その夜の収入全部をその屋形にやるのがしきたりだという。これから屋形へ行って麻雀でもやりますかといわれたが、金もないし、麻雀も下手だから辞退した。遂に芸者なる美人とはまともに目を合せる機会もなくそのまま帰った。
 また抗州という所へ行って、一週間ばかり西湖のほとりの支那人旅館に友人達と泊ったのだが、友人達は抗州の郊外の大きな製紙工場の再開準備のために、ここに滞在しているのだという。何んでもここから数十キロ離れている所に工場があるのだが、いまその工場はテロで日本人工員が殺され、工場も大破壊されて、その復旧をしているので、復旧されたら乗り込むのだということである。それまで待機するのだから呑気に遊べといわれた。私は退屈だから毎日西湖へ雑魚釣りに出掛けることにした。ところがじ旅館に日本人夫婦が隣りの部屋に泊っていた。主人は毎日会社へ出掛けると夫人は釣竿をもって私の部屋の前を通って釣に行くのである。当時の美人女優節子によく似て、彼女にも優る美人だ。私も釣竿をもって西湖へ出掛けたら、さきの美人が其処は釣れないから、こちらへ来なさいというので、美人の側へ行って糸を垂れた。雑魚は釣れてもみな湖へかえしてやるのだ。私は釣ることより美人と話している方が楽しかった。その美人は支那語が素晴しく上手で、子供達を相手に流暢な支那語で笑いこけている。私には何にも分らないが、美人が話したり、笑ったりするのを側で見ているだけで十分であったし、一日が楽しかった。私が抗州の町で買った古い腐蝕した金銅仏や銅鐸のことを話したら、一度見せてくれといって、私の部屋に来られて見てくれた。見るなり、これはみな偽物です。こんなものを騙されて買っては駄目です。特に美術学校などへ持ち帰って学生の参考品などにしては大変です。全部捨てて行きなさいといわれてガッカリしたのである。彼女の父は中支へ渡って古美術商をやっていて、彼女も中支で生れたのだから支那のことはよく知っていますというのだ。支那人は千年位い古い仏像に仕立てること位は朝飯前である。いまどき、そんないいものが町に出ていると思うのですかと散々にやっつけられて赤面どころか、かくれてしまいたい思いがした。
 その後、さき程の工場へ出向くといわれて、ピストルを持たされ、トラックに乗せられた。伏せといったら車の中へ横に寝ろというのだ。そんなに危険なのかと聞いたところ、これから行く先は全部危険だからピストルをかまえて離すなという。私は兵隊ではないのになぜ戦争ごっこのような所へ連れて行かれるのか、昨日までの美人との西湖の釣など全くウソのようだ。車は数十キロ走って、とある大きな工場へ入った。支那の兵隊さん一個小隊が鉄砲を持って、工場の要所要所を守っているが、裸で臍を出して整列している有様は、当時どう見ても心許ない限りであった。それでも工場を一巡して、さきに殉職した工員の骨箱を持ってその日のうちにまた抗州へ帰った。それから美人とは釣に行く機会も話しする機会もなく、思出だけが遠い昔のままで残っている。
 一旦上海へ帰った私は、単身南京へ行くことにして駅へ行ったが、難民達が鍋、釜を抱えて駅にならんでいる。日本の兵隊さん達や特に憲兵達は得意そうにカツカツと群集の囲りを示威的に歩いている。しゃくにさわって、つかつかと改札口へ行ったら、「こら」と上等兵に止められて 「非国民、どこへ行くのだ」といわれたが、答える気もしないので、黙っていたら証明書を出せといわれて旅行証明書を出した。「これは預っておく」といって取ってしまった。勝手にしろとばかり、私は無言で南京行きを中止して宿へ帰ろうとした。却ってあわてたさきの兵隊さんは「あなたは東京ではないか。俺は横浜だよ」といった。横浜にもこんな馬鹿がいたのかと思ったが、こんどは「これは返すよ」といって証明書を返してよこした。そしたら別の兵隊さんが汽車が出るから早くといって、私を改札口から無理に引張ってホームまで走って行って汽車に乗せて、車掌にこの人は切符を持っていないからといってくれたので、汽車の中で切符は買った。戦線にあってこんな馬鹿と利巧が居しているんじゃ、日本は敗けると思った。しかも中支の兵隊は点と線の配列で、線の戦列は直ぐ断ち切られて、点点と孤立状態になる。上海、南京間の列車も度々襲撃されたそうで、私が行った直前に沿道両側の楊の並木の大木が伐り倒されて、漸く列車襲撃ゲリラがなくなったのだそうである。しかし北支、中支、南支と戦線が拡張されて支那全土に拡った戦線は想像外であり、この戦争の終結はどうなるのかを憂えていたのに、軍は重慶へまで行こうとしている。重慶では「おいで、おいで」と日本軍を馬鹿にしきっている。中支、南支では人民がゲリラとテロで日本人及び日本軍をなやましている。
 私が抗州行きの途中、小西湖といわれる美しい湖のある小村に立寄ったところ、その町にある日本の三島製紙という製紙会社の話では社員が湖畔に出て夕涼みをしている折、数回にわたって岸辺の楊の下に支那の美人が立って扇子で招くので、その招きに応じて行ったまま帰らないのだときかされた。殺されたのか、重慶へ連れて行かれて日本語放送をさせられているのか。後者ならいいがと皆さんで心配していた。「決して支那美人の招きにはウカツに応じてはいけません」と注意してくれた。ゲリラとテロが街の中でも郊外でも徹底していて、全戦線は排日一色である。こんな民族全体を敵としている戦いに勝てるなどと思っている愚かさに私は腹がたったのである。その上、日本軍の形式的な軍規、軍令の厳正さ、虎の威をかりて威張っている張子の虎のような兵隊さん、私はいや気がさして一日も早く内地に帰って友森さんにこのことを訴えてみたくなったのである。こんなことのために南京では何の思い出も残らず、不愉快のまま上海へ引返して、九月初めに日本へ帰ることにした。併し八月末から豪雨で上海の街は浸水で車も人も通れない。街のいたるところに車が浸水のまま置去りにされている。やがて雨も晴れ、水もひいたので九月の三日に上海を去ることにして乗船した。その晩はよく晴れた月夜で、海上は美しい。一晩を船上で明かし、翌早朝出港と決った。船は当時の豪華船秩父丸であった。船上での月夜の鳴戸のうづ潮といい、瀬戸内海での思い出にはまたまた忘れがたいものがあったのである。上海で乗船して甲板に出たら、知合いの娘さんに会った。色白の美人である。白い大きな帽子に白のワンピース、白い長い手袋と白一色の装いだ。それが夕日に映えて実に美しい娘さんだ。そのまま甲板の長椅子に掛けて話をした。やはり休暇で上海の父母のところへ遊びに来て、いま帰るのだという。朝の二時過ぎまで甲板で話して船室に入った。
 早朝の六時にはボーイが船室へパンとコーヒーを運んでくれた。八時には朝食のドラが鳴って食堂に出るのだ。食堂では戦事食とは似ても似つかない豪華な食卓だ。米はカナダ米だとかで水晶のような美しい米だ。これでは一流のホテル並だと思ったが、外国航路の船は動くホテルだというのだそうだ。
 その晩の月光は昨夜にもまして、冴えて美しい。船は金波、銀波をけたてて東支那海から玄海灘、そして瀬戸の内海へと入ったのである。瀬戸の島々と金波、バックの黒い山影が印象に残っている。
 甲板で終始娘さんと一緒であったから思い出は一層尽きない。その娘さんは戦後間もなく亡くなったそうである。

昭和十五年の記

 この年愈々戦時色が濃くなって、物資は欠乏する、軍は軍事教練の強化をせまる。昭和十二年の徴兵猶予の特典をもらって以来、退役陸軍大佐西谷幸吉氏と退役中尉の金子竹松氏を軍事教官に頼んでいたがこの年七月始めて、南軽井沢へ野外演習に出掛けた。私も背広服にカンカン帽子姿で参加した。女子部の学生も教練はしたくないが、軽井沢ならつれて行って欲しいといわれて、一賭に行った。
 学生は木銃だから撃っても弾丸(たま)は出ない。私子供のころ日独戦争というものがあって、全国で子供達が日本軍と独逸軍に分れて戦争ごっこをして遊んだことを思い出した。青竹を持って兵隊さんの真似をしたが、学生達は鉄砲の形をしている木銃を持っている。また鋳物のゴボウ剣も腰にぶらさげ、弾丸(たま)入れも二個剣帯についている。退役軍人でも中尉と大佐殿が引率しているのだから、どこから見ても立派な学校の軍事教練の一隊であることには間違いない。しかも教練の動作も、夜間演習も、私達の中学時代の教練よりは立派である。女子部はお菓子やキャラメルを持っての軽い避暑気分のようだ。軽井沢は涼しいので、暑い東京よりは避暑気分もあって悪くはなかった。夜分は夜警に男子学生が廊下を巡るので眠れないから、私に明晩から女子部のとなりへ寝てくれというので、翌晩私は女子部のとなりで寝た。こんどは私の鼾で眠れないといって一晩で無罪放免になった。
 こんな、たわいのない教練を終えて帰るとき、軽井沢で点呼をしたら男子学生二名が足りない。
 汽車の発車で止むなく駅貞に頼んで全員汽車に乗込んだ。汽車が横川の駅に着いた時、駅員が多摩の先生はいますかという。私はハッと胸騒ぎがしてホームへ降りた。軽井沢から「学生さんに間違いがあったといま知らせが来たからすぐ引返して欲しい」という。私は直ぐ下車した。
 寺内銈三君(油画科助手)が私も行きますといって降りてくれた。下り列車はと聞くと六時になるという。まだ五時間近くも待たなければならない。そのまま汽車を見送って駅を出た。自動車で碓氷峠を越して行けば一時間もあれば軽井沢へ行けると思ったので、自動車屋へ行って交渉した。ところが梅雨期のため、出水して、峠は山崩れで車は行けないという。峠まで行けば峠から歩くからとにかく峠まで車を出してくれと頼んだ。
 車が走り出して山道にかかると霧が深い。車が進むにつれて霧はますます深くなる。もう霧ではない雲だ。寺内君は何にも口をきかない。「どうした」と開いたら「気持が悪い」といって真青になっている。成程雲の中の車はこわい。右側の路面は士の色も見えない。左側は勿論真暗な雲だ。「運転手さん大丈夫か」と聞いたら、「黙っていて下さい。何にも見えないからただ勘で走っているのです。左側は熊の平駅で千尋の沢になっているのですから危険です」という。これは大変だと思った。間もなく「軽井沢駅」ですという。「どこに軽井沢駅がある」と開いたら「ここですから降りて下さい」というが駅も町も見えない。しかし、車を降りて歩いたら駅へ入った。建物の中へは雲は入らないものと見えて、すべてのものが見える。そういえば、さっき車の中では人も物も見えていた。私は始めて霧や雲は囲いの中には入らないものだということを知ったが、雲の中の暗闇は全くこわかった。駅員に聞いた町の旅館に行って、事故をおこした学生に会った。学生は二人とも無事であったが、興奮はまださめていない。その夜は、寺内君と二人は徹夜で学生を見守った。幸いなことには事故も軽くすんでホッとした。
 この年の秋、またしても東横本社は地代と利子を支払えといって来た。払えないのなら学校を止して東横へ渡せというのである。しかもこのときは文部次官通達で、「文科系の学校は、物理化学の授業を追加して、理科系の教育に転換して、生産に協力して欲しい」といって来ていたのである。このことを伝え聞いた学生達は、学校は廃止されるのではないかと騒ぎ出した。そして、この際専門学校にして欲しいといって来た。しかし軍は、文科系の学校を理科系の学校に転換しての専門学校昇格ならともかく、文科系の学校は存続すら許さないというのに、専門学校に昇格などは出来ない相談である。
 昭和十二年以来文部省の方針として文科系の専門学校は認可されないことになっていたのである。このことを話しても学生はなかなか納得してくれない。内憂外患ともごもいたるとはこのことである。この時期に現在の武蔵工大は東横へ身売りして武蔵高等工科学校という各種学校から武蔵工業専門学校に昇格したので、こんなことも多摩の学生には刺戟になったことと思う。
 多摩美術学校は専門学校昇格問題と東横からの借金が何時も悩みの種であった。
   
昭和十六年の記

 いつも東横から学校を渡せといわれるので、何んとか東横から離れたいと思って、色々金策其の他に苦心した。
 そのとき、たまたま元豊島師範学校の校長で、東京府教育局長の経歴もある成田千里氏が金を貸すから校長にせよといったので、東横との肩替りの金十七、八万円を出してくれるならといって、校長の交替も承諾した。ところが金は作らない。僅か三万円の銀行預金を見せて、十万円は直ぐ渡すといいながら金が作れない。金を受取らない限りは校長交替の印は押さないといっていたのに、私の旅行中に校長交替の印を押して東京府へ手続をしたのである。そして私の知らない間に校長の辞令が東京府から出ていた。
 しかも私の知らない事務長と事務員と称する人達が四、五人学校に来ていたので、私は驚き直ぐ成田氏の自宅に電話をしたところ、成田氏は千葉県茂原の別荘に行っているという。明朝、村田が茂原へ行くということを連絡して欲しいといって電話をきった。翌日私は千葉県茂原の成田氏の別荘へ行った。成田氏は私を家へも上げずに直ぐ別荘の先にある岩間の入江の断崖上の亭(ちん)に案内して話し合った。私は校長辞令届に印を押すことと学生の授業料其の他の収入を押えてしまったことを責めて、学校の通帳を渡すことを交渉した。
 彼は当時柔道五段で拳骨は彼の奥の手である。彼が戦後東京都教育長になったとき都の事務職員に拳骨を見舞って新聞種となった有名な男である。私は彼と対峙して「通帳を渡さなければ背任横領になるがどうする」といって、通帳を渡すこと、と校長辞任届に印を押すこと、を確約して東京に帰った。このとき、埼玉県安行から、つつじ三百株を学校に移し植えたのであるが、これは成田氏の校長就任記念という段取りであったが、成田氏の校長就任は僅か一週間ばかりで終った。しかし戦後、つつじは付近の人達が校舎の焼跡から随分失敬してもって行ったのだが、多くのつつじはいまなお校庭に咲き残っている。十五年十月に大政翼賛令が出来て国内の世論を統一、軍事一色に塗りつぶしてしまったのだが、さらに十六年九月には国会も翼賛議員盟を作って、軍部に協力体制をとった。
 十月十六日に近衛内閣は総辞職して、十八日に東条英機陸軍大将が内閣を組織して、東条内閣となった。さあ、これからが大変だ。
 十二月八日ハワイ真珠湾奇襲攻撃、対米英宣戦布告、大東亜戦争へと突入した。
 大東亜共栄圏という勝手なごたくを並べて、国民の耐乏生活「欲しがりません勝つまでは」と国民をだました戦争になってしまった。
 支那だけでも持て余していた日本が、米英に宣戦布告して北はキッツ、アスカとアラスカ諸島へ、南はニューギニア、豪州と太平洋全域へ兵隊と軍艦をばらまいての戦争だ。支那大陸での線の戦争の比ではない。まさに気狂いの沙汰だ。
    
昭和十七年の記

 この年の暮、東横本社は校庭の半分約二千坪を田園都市課で、住宅に分譲するから測量するといって五、六名の人達が測量器を持って来て、校庭の測量を始めた。私は驚いて、この人達に退去を求め、退去しなければ家宅侵入で訴えるといったが、「私達にはわかりません、本社へ交渉してくれ」といって測量を止めない。止むなく私は元の法相塩野季彦氏を中野の私邸に訪ねて「五島慶太氏に折角の美術学校をつぶさないように郷(長野県)の先輩として話してもらいたい」と嘆願した。塩野さんは「五島君か、弱ったねェ。彼は私が司法大臣のとき、三越の株を半分以上買占めて三越を乗取り、さらに全国のデパートを独占することをねらい、また私鉄を統合して自分の掌中に握る計画を実行していたので、時の蔵相兼商相の池田成彬君と話合い、池田君から五島君に中止するよう勧告をさせ、若し中止しなければ、私の方で五島君を逮捕することにしたのだ。あの男は五島慶太ではなく、強盗慶太だよ。五島君のところへは私の使いを出して話してやる」といわれた。
 数日後塩野さんから来いと電話があったので、中野の私邸へ行ったところ「五島君は俺に、多摩美の校長になってくれ。そして自分が理事長になって、多摩美を立派な学校にしましょうというのだ。また五島君は〝自分は行くとして可ならざるはないのに、多摩美の村田という男だけには……〟」といったそうだ。
「君、天下の五島をして村田だけはわしの意のままにならんと嘆息させたのだから、君も以って冥すべしだよ」といわれ、「わしは法律の学校なら校長にもなるが、美術学校の校長にはならんから、まあもう少し面倒を見てやってくれ」と伝えさせておいたとのことであった。其の後測量にも出来なくなって安心はしたものの、このままではいけないので、時の東条内閣の厚生省保険院長官檜貝詮三氏が、「工業学校と合併して美術学校を専門学校に昇格させてはどうか。それなら工業学校建築の材料と建築費は出す。また専門学校の基本金十万円と東横への肩替りの金も出す。出資者は山梨県の大きな木材会社の社長だから大丈夫だ」とのことであったので、私もこれで東横との縁も切れればと喜んだ。
 中目黒の檜貝邸も度々伺ったのだが、その後さっぱり金は出来ない。どうやら話は尻切れトンボに終わりそうなので、檜貝氏に話の決着を迫ったところ、「申訳がない。木材会社が駄目になったので金が出ない」とのことで、これも話は纏らないことになった。
 この一月に出来た翼賛壮年団なるものの世田谷区の理事に私に入って欲しいという話が翼賛本部からきたが私は断った。四月に翼賛選挙が行われた。北さんは非推薦で立候補した。推薦三百八十一名、非推薦三十五名である。十七年の翼賛選挙こそまことにひどいものであった。新潟の野沢という人が「君が選挙違反による公民権停止中で動けないことは判っているが、なにしろこんどの選挙は全く無茶だ。地方翼賛会の幹部や在卿軍人会役員等が、町村長や警察署長と連携をとっての大選拳干渉だ。わが党の幹部も警察がこわくて、わしのいうことなど聞いてはくれない。わしはもう心配で耳が全然聞えなくなってしまった。こんな時勢にこそ、北君のような人物が必要なんだ。日本で一人でもよいから非推薦の北君を当選させたい。君は是非わしの代りに各町村長や党の幹部等を説きまわってくれ」とのことで、私はそのまま佐渡に渡って、各町村を歩きまわり、さらに西蒲原郡、新潟市と暗行を続けた。
 幸い、この選挙にも辛勝することが出来たが、北さんは当選と時に 「造言蜚語」というかどで、新潟刑務所に収監された。塩野元法相、小原元法相等の尽力で、「流言蜚語」であっても「造言蜚語」ではないということになり、北さんは難をのがれた。
 翼賛選挙は東条内閣の下で、時の商工大臣岸信介氏が総元締となり、翼賛会推薦候補以外は一人も当選させないというものであって、非推薦になった候補者というのは「前年度翼賛会予算六百万円を今年度は三百万円に削減すべし」として、前年度より増額される政府の翼賛会予算成立に反対の青票を投じた五十数名の前代議士諸公であった。
 この時の選挙で非推薦で当選した者は、三十五名中保守系では尾崎行雄、鳩山一郎、北昤吉、安藤正純、星島二郎、芦田均、川崎克の七名だけであった。選挙がすんで直ぐ尾崎愕堂を除く六名が中心になって、非推薦姐が山王ホテルに「偲㑪会」という会を作り、毎日ここに会合していた。
 世話人はこのホテルの総支配人であった樋原悦二郎氏(非推薦落選組)であった。しかしこの会の人達はことごとに東条大将や軍部に睨まれ、いくばくもなく翼賛会に吸収されてしまったが、尾崎先生と北さんの二人だけは被告あつかいされて、翼賛会に入れなかった。鳩山さんは翼賛会には入ったが、直ちに軽井沢に逃避して、ついに終戦まで東京へは出て来なかった。
 終戦と時に軽井沢から東京に出てこられた鳩山さんは、さきに非推薦当選組五人を自宅に招請して、純正かつ清浄なる政党を結集したいといい出し、翼賛会推薦者は一人も加えないという意気込みであった。
 これが戦後自由党という政党の発祥となったのである。しかし、政党は「力」であり「数」であるから、やはり数を増やさなければ政党の力は出来ないということで、段々に入党者を増やして、ついに数百名の水ぶくれ自由党が出来たのである。

昭和十八年の記

 昭和十六年十二月に大東亜戦争に突入した戦局は、米国の反撃により、十七年六月のミッドウェー海戦の敗北以来裏目裏目と出て、ガダルカナル島の撤退となった。十八年四月十八日には連合艦隊司令長官山本五十六大将の戦死、二十日には東条内閣は改造となった。また五月二十九日アッツ島の日本守備隊は全滅となった。七月三十日に女子学徒動員と決定した。
 しかし戦局の悪化につれて軍の圧力はますます増大する。軍事講話を定例的に行えという達がきた。私は一度だけでよいからと友森大佐にお願いしたところ「陸軍報道部の山内大尉に頼みなさい。私だと報道部に文句を言われるよ」といわれたが、無理に友森さんにお願いした。
 友森さんは指揮刀で学校へ来られたので、何故軍刀を吊らないのかときいたら「戦場でもないのにあんな重いものが持てますか」といって笑った。
 講演を始めるときも指揮刀をはずして丸腰だ。そして「こんな話をすると私はいつも報道部から叱られるのだが、ほんとうのことを国民に伝えて、〝戦局は大変なんだから頑張ってくれ〟というべきなのに、事実を枉げて国民に伝えているのはいけない。「必勝の信念」が「不敗の信念」に変った。敵、味方の飛行機の損害数も合わない。こんなことは共に戦っている国民に申訳ないことだ。事実を伝えて国民の奮起をうながすべきだと私は主張するのだが、いつも私は軍本部から叱られるのだ」といって有りのままの戦局について講演してくれた。こんな立派な軍人は殆んどいなかったので、私はいつも敬意を表していたのである。
 しかるに戦後、進駐軍の横浜裁判で友森さんは死刑を宣告されて殺された。こんな文化に深い理解のあった軍人が死刑とはひどい。戦時中威張っていた軍人は戦後みな悪いことは人に転嫁して自分は生残っている。友森さんはその犠牲者の一人だ。空襲が盛んになって学校の構内にも防火用水を二個所堀れという厳達で、学生を動員して大きな防火用水を掘った。その一個所がいまなお構内の池となって校舎の南側に残っていて鯉を飼っている。この用水の水も二十年五月二十四日未明の空襲で校舎全焼の折には何の役にもたたなかったのである。かえって、戦後鯉を飼うのに役立っているとは全く皮肉な話である。
 この五月に昭和医専(現昭和医大)の校長上条秀介さんから二十万円の借金をして東横本社との縁を断ち切ることにしたのである。昭和医専も理事の大半と評議員全部は昭和医専から出すといわれたが、東横のような事業家でもなく、学校なら話はわかるからよかろうということで、上条さんから金を借りることにしたのである。
 東横本社へは地代と利子及び元金共に耳を揃えて全額支払った。この時限り東横との縁は切れたのである。またこのときに学校の負債、例えば牧野さんの画の代金や今井先生の戦前の校舎の設計費なども精算してお支払いしたのである。だから借金は昭和医専一本になってしまった訳である。
 併し学校法人の形は依然として他様(ひとさま)のものであったが、さりとて本学の教職員が俺のものだなどと威張った口はきけないのである。ときによると、卒業生や先生達の中には、しかも帝美から分れてきた昭和十年頃の先生や学生が、われわれが苦心して建てた学校だといっているようだが、ピタ一文の金も、何等の協力もしなかった建設などはあり得ないのであることをここに断っておく。
 殊に郷倉千靱、佐々木大樹、逸見梅栄、児島正典氏等のために是非ともこのことを特記しておきたい。
 この七月の軍事教練の際、軍部から木銃による教練では軍事教練にはならない。撃つ練習が大切なのだから弾丸(たま)の出る鉄砲を使えといわれた。しかしいま時弾丸(たま)の出る鉄砲など買えるわけがない。軍へ行って払下げてくれといっても、軍も払下げるものなど一挺もないというのである。止むなく昭和医専の上条さんに昭和医専の鉄砲を借りることにした。また陸軍省へ行って軍事教練用として弾丸(たま)三百発を払下げて欲しいと申出たが、過去の実績がないから弾丸(たま)は出せないといわれた。またまた友森さんの所へ行って、始めての練習なんだから是非弾丸(たま)を出すように配慮してもらいたいと頼んで、三百発の弾丸の払下げに成功した。この年、始めて撃てる鉄砲で軍事教練を実施したが、幸か不幸かこの年限り軍事教練はする必要がなくなったのである。
 即ち学徒出陣のことが決って、学生は全部十二月一日に入隊することになったのである。
 内閣に校舎転用協議会なるものが出来て、学生が入隊すると学校が空になるので、軍では陸、海軍競争で校舎を利用することに狂奔したのである。
 十月の或る日、陸軍大尉さんがオートバイで兵隊を連れて学校へ現われ、「責任者はいるか。こんど軍がこの校舎を使うことになったのだから学校内を案内してくれ」と威嚇的ないい振りであった。
 私は「いつそんなことになったのですか。文部省からの知らせもないのに軍が勝手に使用出来るのですか。しかも学徒動員に際し、国では諸君は出征しても戦争が終れば直ちにもとの学校に帰って勉強が出来るように学校はそのままにしておくから安心して出陣するように宣言したのではありませんか。その舌の根の乾かないうちに校舎を勝手に使っては出陣学徒に対する約束に反するではありませんか。学生をだまして出陣させるのですか」と問い質した。
 大尉さんは何にも答えられない。「とにかく校舎を見せて欲しい。青図があればそれでもよい」といったが「青図はありません。いま授業中だから校舎は外から見て廻って欲しい。それからこれだけは言っておきますが、実は出陣学生達に、繰上げ卒業にしてやるから、何時卒業式をやろうかといったところ、〝私達は死んで帰ります。卒業証書なんかいりません。若し繰上げ卒業にするなら卒業証書は親父の所へ送ってやって下さい〝といったので、よし行ってこいといって卒業式はやらないことにして、壮行会をしたのです。それにも不拘出陣する前に彼等学生の学び家を勝手に召し上げるなど皇軍のすることですか」とその場で抗議した。大尉どのはおこりもせず引き揚げた。
 このことについて、北さんが十月の臨時国会で時の陸相奈良大将に質問したので、陸相は「申訳ない。今後軍として十分注意をするように通達したい」と卒直に答弁されたらしい。
 また学徒出陣と時に学徒動員会も出て、兵隊に行かない男子学生と女子学生は工場へ動員されることになったので、是非本校の学生は一ヶ所へ集団動員するようにと懇請して、男子は溝の口の軍需工場日本光学へ、女子は全員中目黒の海軍技術研究所へ通えるようにしてもらった。かくて、学徒出陣で学生は夫々郷里へ帰って、十二月一日に入隊したのである。
 実は昭和十八年五月のことになるが或る日、本校西洋画科三年に在学中の張君の下宿の小母さんが来て「今朝張さんが警視庁の刑事さん二人に連られて行きました。そのとき便所に行きたいといって、私の側へ来て、このことを学校の村田さんに伝えてくれといって行きましたので参りました」といって帰った。
 その後朝鮮から張君の妻君だという人から手紙で「主人張はそんな人ではないのに、友達の中に朝鮮独立運動に参加している人がいるため、警察へ連れて行かれたのですから、村田先生から朝鮮浦項の警察署長に手紙で、主人はそんな人ではないことを証明して欲しい」といって来た。
 私は「七月に満州への旅行を予定しているので、その時浦項の警察へ寄って署長に話してみる」といって妻君に返事を出した。
 七月中旬私は下関から関釜連絡船に乗った。その時は敗戦色濃厚のため、関釜連絡船では甲板に出ることは許されないのみならず、夜も昼も船内に閉じ込められて、窓という窓は全部遮蔽されて、船体は全くの目かくしで航行させられ、而かも何時機雷のお見舞を受けるかも知れないという危険状態におかれていた。それでも一歩釜山につくと割合平静であったが、戦闘帽にゲートルは巻けといわれたので、釜山で戦闘帽を買い、ゲートルを持っていなかったので、紐で膝の下と足首をしぼって、ゲートル代りにした。
 釜山から裏朝鮮廻りのローカル線に乗込んで浦項に向った。汽車とは名ばかりで、誠にお粗末なもので、昔の客馬車にも等しく、長椅子を敷並べて二等車などはなく日本人も朝鮮人も全くの一視平等の結構な扱いであった。但し朝鮮の白衣の婦人達は薄汚れた上衣に子供を抱いて、子供の用便は座席のすぐ側ですまさせ、白衣の裾で子供の尻を拭っていた。無数の蠅が婦人の白衣にも、子供の糞尿にも群がっていた。今の韓国では想像もつかないような情景であった。私は浦項の警察へ行って、夕方から夜の九時頃まで署長に会って、張君の人柄や就学状況を縷々説明して、彼が朝鮮独立運動には絶対参加するような人物でないことを力説したが、なかなか釈放するということは言わなかった。それで私は本人に面会だけさせて欲しいと懇請したが、面会も許してはもらえなかった。しかし後できくと私が浦項警察署長に会って以来、留置中の張君の待遇は一変して、非常に寛大になったとのことであった。止むなく、仏国寺へ行きたいと思って汽車の時間を聞いたが、もう汽車がないというので、その晩は駅の待合室のベンチの上で一泊することにした。私が浦項の警察を出て以来二人の刑事らしい人が私を尾行した。
 翌日、私は仏国寺に向い、仏国寺で一泊したが、旅館は日本人の旅館で、実に立派で前面は見渡す限りの青田の広大な眺望である。食事も内地の旅館と少しも変らず、湯上りに酒も出て全く昨晩の憂さが飛んでしまった。大きな部屋に浅黄の蚊帳の中で一泊した気分は実にすがすがしかった。しかし隣室で男女のヒソヒソ話を耳にして、なかなか寝につくことは出来ない。泣いているのか、すかされているのか、それもよくわからないうちに私は眠りについたらしい。翌朝隣室のお客が現われて「昨晩はうるさかったことでしょう。実はここに居るのは私の娘で、役人と結婚して夫婦で朝鮮に勤めているのですが、私はこの仏国寺が好きなので毎年ここへ来るのです。私は岡山の医大の教授をしている者です」と云って名刺を出された。私はホッと安堵した。
 私は旅館をたって直ちに仏国寺へ行った。寺には形のいい石燈龍が一基あったが、それには次のような立札があった。
「この燈籠は永い間日本に行っていたのを長尾欽哉氏が仏国寺へ寄贈されて今日ここに返って来たものである」と書いてあった。
 寺を一巡して山稜の石仏のある洞窟へ向った。洞窟に至る山路からは渺茫たる日本海が一望の間に拡がっている。
 洞窟内の石仏は東洋三大石仏の一つであるだけに実に雄大な坐像で、鎌倉の大仏位の大きさである。天蓋は大きな円形で周囲の数枚の大きな大理石と共にドームを造っている。しかも何の技巧もなく力学的な力の平均だけで支えられている。さらに両側に対峙している幅六尺、高さ九尺の大理石の五百羅漢の浮彫彫刻が羅列している偉容さは驚嘆の余りであった。そこから新羅文化の石彫の都、慶州の街に出て、さらに平壌に向った。
 平壌では妓さん学校を見学して、その晩は平壌の料亭で数名の妓さんの歌と太鼓で一夕の歓を過したが、朝鮮料理の辛らさにはついに一箸も手がつかず、空腹のまま料亭を出た。
翌日平壌から満州行きの列車に乗って、奉天に向った。奉天では北陵廟や奉天の市内を洋車(やんちょう)に乗って見学して廻ったが、日本が建てた忠霊碑の前を通るときは、私達日本人は必ず戦闘帽を脱いで車の上から忠霊碑に向って一礼するのだが、洋車を曳いている満人は必ず反対側の路面にペッと唾を吐いた。
 また公園の入口では十四、五才の子供が空腹の余り罐詰の空罐を片手に、あおむけに倒れて、死の刹那的な表情で手足をビクビク動かしている悲惨な光景も見た。私を案内していた友人に「どうしてこんな難民を収容して救済しないのだ」と聞いたところ「イヤ、毎日大人も子供も数多くの人達が死んで行くのです」と答えた。
 東洋民族の為の聖戦である筈の戦さも戦争の裏で非戦闘員の満人が飢えて死んで行く有様を目のあたり見せられたのでは、何んともやりきれなかった。
 満州に渡ってからは毎日ニューギニア諸島の敗戦の状況が内地に居る時よりも、もっと明確にキャッチすることが出来た。また満州に居る日本人の女子供達は、夜間は絶対外出を禁じられているという状態であった。これが十八年の八月当時のことであるから、十二月の学徒出陣、学徒動員、竹槍訓練、バケツリレー等々と思い合せると、「必勝の信念」が「不敗の信念」に変わったことなど、敗戦の様相がはっきり見えていた。
 私は奉天から新京を経てハルピンに行った。
 ハルピンでは日本人の美人との相乗りの馬車で、天安門や白系ロシア人の墓地を案内してもらったが、墓地の立派さには一驚した。案内してくれた人は素敵な美人ではあったが、当時戦時中のためか、髪の匂いが鼻をついてやりきれなかった。これも遠い思い出の一つであった。
 またソ連との境の松花江で夕涼みをしたが寒かった。なる程ロシア人は皆オーバーを着ていた。
 さきの新京では街の中心部に満州国皇帝の皇居があった。擂鉢形の窪地の中で、平地から俯瞰することの出来る如何にも日本軍の監視下に置かれている満州国皇帝というにふさわしい情景であった。

昭和十九年の記

 この年二月東条内閣改造で、運輸通信大臣になった五島慶太氏は文部省に対し「多摩美術学校を廃校にしろ」といったということで、文部省専門学務局から事情を聞きたいといって来た。
 私は「文部行政は命令が二途に出るのですか。運輸通信大臣には学校に対する廃校命令権があるのですか。しかも本校と東横の間には十八年五月限り関係は切れたのであります」といったところ、文部省は「いや、五島運輸通信大臣に対しては、学校の廃校は出来ませんと断ってあるのだが、一応五島さんと多摩美術学校との間にどんな事情があるのか、聞いておきたかったからです。これでよくわかりました」といった。
 さる十八年暮れの校舎転用協議会からの達による陸軍省との一件以来、陸軍省は手をひいて、海軍省から「海軍の疎開の一部の使用に校舎を貸していただきたい」と丁重な依頼があったので、海軍技術研究所に校舎を転用させることにした。学校の図書、備品は一括して本館の下の部屋に移して、私一人が留守居として残った。
 ところがこの一月以来、海軍技術研究所の一部が本校に引越してきて、海軍技術大尉一名、中尉、少尉等二、三名と職員十数名がきた。なお引続き来る予定らしいが、このとき時に本校の用務員等はすべて軍属にさせられた。ところが二月になると少尉殿が下宿代わりに学校内に寝泊りしたいと言い出して、軍隊用寝台を持ち込んできた。軍属になったおばさんに炊事をして欲しいという。まあ軍人さんのいうことだからとおばさんも承知して炊事をしてやった。米が配給で、割当であることもお構いなしに、飯は三杯から五杯位お代わりする。味噌汁は二杯以上も代える。
 副食物には文句をつけ、おばさんが「それでは困ります」というと地団駄を踏んでどなる。全く始末におえない代物らしい。「お前は軍属なんだ。俺は命令する。〝命令〟違反は軍法会議にかけて罰するぞ」といって毎日おどすとのことで、おばさんは「とんでもないことになりました。学校を止めさせて頂けませんか」と嘆願して来た。二、三回はおばさんを宥めていたが、そのうちに二、三人の職員が、学校の荷物のおいてある教室の中へ入って、絵を二、三枚と学校の金を持ち出した事実があった。私は海軍技術研究所長の某海軍少将に会って、余りの不届を詰問し、犯人と少尉殿の処分を要請した。またおばさんの解雇を申し出た。なお「軍民離間はこんなところにあると思う。戦局苛烈の折柄、軍も自重されたい」と卒直に進言した。
 少将殿は「全く申訳ない。早速調査をさせて処置します。〝沐猴にして冠する〟とはこのことです」といって、翌日大佐二人が学校に見えて調査し、犯人を他に移動させて、絵二点と金を学校へ返した。そしておばさんは軍属を解除した。なおさきの少尉殿と他の中尉、大尉等も第一線部隊へ移動命令が出たそうだ。更に全国の各海軍関係の軍需工場に対し「今後民間人に対しては一層丁重に応待すること」という通達を出したとのことであった。軍も此の頃から漸く反省期に入って来たようである。
 しかし、戦局はますます悪くなるばかりで、二月に米軍のマリアナ群島上陸、クェゼリン島、ルオット島の日本軍全滅。二月二十五日文部省は食糧増産のため全国の学徒の動員を通達した。
 三月九日B29による大空襲で、本所、深川方面は全滅となる。私は十一日に焼跡を徒歩で歩いて見て、その惨状に驚き、帰って家族を佐渡に疎開させた。
 三月三十一日古賀連合艦隊司令長官が戦死した。五月に入ると国民総蹶起運動中央総会開催となった。私も動員されそうである。陸軍省へ行って友森さんに会って見たら、友森さんはいかめしい参謀肩章を肩からぶら下げている。
 「どうされたのですか」と聞いたところ、「私も第一戦に出ます」というから「それは大変ですね」といったら「私は西部軍所属ですから福岡です」という。「福岡なら内地ではありませんか」「いや、内地も第一戦です」と言い切った。
 六月、米軍サイパン島上陸、マリアナ沖海戦で日本空母の大半を失った。
 七月にはサイパン島の日本軍全滅。
 七月十八日東条内閣総辞職。小磯、米内内閣成立。愈々戦争終結内閣が出来たと思ったが、戦争終結は仲々難しいらしい。
 米内さんが小磯さんに「現役に復帰して、陸相を兼務して、陸、海が一体となって戦争終結に努力しよう」ということで出来た内閣なのに、陸軍が小磯大将の現役復帰を仲々承知しない。しかも阿南陸軍大将が陸相となって、却って陸軍は「本土決戦」「竹槍戦術」などと称へ出した。しかも、われわれのような銃後の廃兵に対しても「暁の訓練」と称して、毎朝銃槍の練習を強いた。
 これは余談だが、十八年に前フィリピン司令長官本間雅晴陸軍中将が、東条首相によって、軍司令官を被免されて退役になったとき、私達郷の者で本間中将の慰労会を新橋駅上の食堂で開いた。そのとき本間中将が、戦局の見通しについて卒直に無理な戦争であることを述べた。「東条君が大命降下のとき私(本間)に陸相を引受けてくれといったのだが、私は断って、君は陸相であるべきで首相になってはいかんと忠告したのが勘にさわったらしい。東条君と私は陸大が期で卒業時の一番が田中静壱、二番が今村均、三番が私、山下奉文君が七番、東条君はたしか十七番位だった筈で、しかも私達は参謀本部系で、作戦用兵のことばかりやってきたので、戦争をやる第一線指揮の方ではないのに、われわれ参謀系の田中、今村、僕、山下等を第一線部隊の司令官にして、却って戦争屋さん達が後方で作戦用兵をやっている。このことからが大体無理なことだ。私はこれからは晴耕雨読でなく晴読雨読で余生を送りたい」といわれた。
 この本間中将が戦後マッカーサー元師によって、コレヒドルの米軍捕虜を虐待したということで、フィリッピンの米軍裁判で死刑になった。
 友森大佐は米軍の横浜裁判で、本間中将はフィリピン裁判で共に死刑に処せられたが、私の知る限り、この二人は当時の陸軍きっての文化人であり正義感の強い人達であった。決して捕虜を虐待したりするようなケチな人間ではないのである。まことに立派な人達であったのである。
 兎角人を裁く人間というものは得てしてあやまちを犯し易いものであるが、マッカーサー元師も調子に乗ってこんな非人道的な戦争裁判で、善良な人達を死刑にして却って悪い人達を生かしておいて日本の政治にまた汚点を残したのである。
 十一月に入ったとき、NHKの論説委員の一人であった海老名一雄(海老名弾正の長男)さんが来られて、「どうも戦争は駄目だね。実は、これは絶対内緒のことだが、僕がキャッチしているフィリピンのマッカーサー司令部からの情報だと、朝鮮の代表李承晩は、日本の全面降伏は武装解除でなくてはならないという。重慶の蒋介石代表は、日本の武装は解除しないで、中国軍と連合して中国共産党を押えることにしたいといって譲らないので、結論には達しないらしいが、とにかく日本の全面降伏を前提としての敗戦後の日本の処理について、すでに米連合軍は検討しているのである。日本の敗戦は既定事実として討議している。絶対に勝てない戦争なんだが、これについては君はどうしたらよいと思うか」と問われた。私は「最早や鶴の一声以外は戦争終結の方法はありません」、「鶴の一声をどうしたら出すことが出来るか」といわれたので、「海軍は初めからこの戦争には乗気でなかったのだから、海軍の上層部を通じてやることですね」、「海軍の上層部とは誰れのことか」、「岡田啓介大将です」、「岡田大将には誰れが話すか」、「さあ誰れがいいでしょうね」といったが「私は今動くと直ぐに憲兵隊の特高と警視庁の特高から連れて行かれるから動けない」、「いや、今の司法大臣松坂広範は私の大学の期だから、松坂に話して君は逮捕させないようにするがどうだ」といって海老名氏はその日は帰った。それからまた来て「松坂君は警視庁の方は絶対責任をもつが、陸軍の方は気違いのようになっているから憲兵隊は難かしい。しかし陸軍以外の各閣僚は全部が賛成で、とくに外相は大賛成だ。是非民間からこの運動を推進して欲しいと言われた」とのことであったので、私は海老名さんと相談の上、海老名さんの恩師でもあり、もとの義父でもあって、実母(横井小楠の娘で海老名弾正の奥さん)と従弟妹の間柄である「徳富蘇峰」翁(ぢい)さんに話してみるかということになって、海老名さんが伊豆山の徳富蘇峰さんに手紙を出したところ、徳冨さんから「是非会いたいから来てくれ」との返事があったので、二人は欣喜雀躍して正月早々伊豆山に徳冨さんを訪問することになったのである。

昭和二十年の記

 一月五日に海老名さんと私は伊豆山の徳富蘇峰翁を訪ねた。翁は普段着の上に紫に真白な毛皮の裏をつけたチャンチャンコを着流して、まことに気さくに私達を迎えてくれた。しかもかつての弟子であり、二女の娘婿(その後離婚)でもあった海老名氏に対しては、二十年振りの懐しさもあってか、手をとらんばかりの応待振りである。私達は国民服に戦闘帽、防空頭巾を肩から背負ってゲートル、ゴム長靴という出で立ちなので、徳富翁は「いや大変だね、幸いここは燈火管制だけで飛行機は上空通過だから安心してこの通り着流しで居れる。さあ今日はここに泊って、ゆっくり湯にでも入って行きなさい。旅館をとってあるから、そこで休んで、明日ゆっくり話しましょう。これからは若い村田さん達にしっかりやって頂かなければならないから頼みますよ」とまことに如才のない振舞いに感激してしまった。誘われるままに熱海の桃山荘という旅館へ案内された。まず湯にといわれて湯殿で靴下を脱いだところ二人共全指の股は垢で真黒だ。湯に入っていると「流しを」といって男衆が来た。「いや、これは、これは」と二人共恐れ入って夢のような気分で、何年振りかで背中を流してもらった。
 湯から上ると女中が浴衣に丹前を重ねて羽織まで添えてくれた。部屋には近頃みたこともない大変な料理が出ている。しかもお酒もついている。これはこれはとばかり恐縮しながら久し振りのお酒にいい気になってお代りを数本もらった。いい気持で蒲団の中へ横になった。
 朝起きしたつもりであったが、もう十一時過ぎになっている。空襲におびえていた毎日毎夜が全くうそのようだ。一体これはどうしたことなんだ、夢の島へでも来たような気分だ。海老名氏「これはアメさんが日本占領の暁は熱海を保養地にする気で爆撃を避けて通っているのではないか」という。私も「そうかも知れないね」といった。
 再びみじめな防空姿に身を固めて伊豆山に出掛けようとしたら、女中が「伊豆山の先生からお電話で、お昼は網代の料理屋に用意をさせてあるから、そちらへどうぞ」という。
 もう十二時をまわっている。「じゃ、折角席がとってあるというのに行かない訳にもいくまい。夕方からお翁さんのところへ行くか」と海老名さんと二人はそのまま網代まで行った。鱈腹呑んで食って夕方伊豆山へと思って駅まで行ったところ、海老さんが「村田君、今日はこのまま東京へ帰ってまた出直して御馳走になろうや。話は手紙で書いてあるのでわかっているのだから、何度でも来ようよ」という。ついに要件の重大性も忘れて、夢の島の思い出に誘惑されつつ、東京行きの切符二枚を買ってしまった。
 東京へ帰ったその晩、海老名氏の自宅付近の狸穴一体は空襲で海老名氏は焼出されたらしい。二週間ばかりの後、福井市からの手紙でそれを知ったが、「伊豆山行きは、東京へ帰ってから相談しよう」といって来た。
 その後空襲は愈々激しくなり、列車への機銃掃射も始った。海老名氏から「汽車にも乗れなくなった。妻の郷里に蟄居している」といって来た。海老名氏はそれ限り東京へ出てこないので伊豆山行きもそれ限りになってしまった。
 思えば主戦論者であった徳冨翁、或はこれが手であって、肩すかしを食わされたのかも知れない、と今でも思っている。かつて、二・二六事件の磯部浅一の獄中手記の写真一部を小笠原長生中将に托して、秩父宮から上聞に達するようにお願いのため、私自身で小笠原中将にその写真を手渡したのに、却って軍の上層部にそれが渡って、私が追われる身となった失敗もあり、またしてもの失敗かと、いまさらながら自笑している。
 五月二十五日未明の大空襲で、学校の校舎は全焼した。学校の図書も備品も一切の書類もすべて灰燼に帰した。私にとっては妻子を一時に亡くしたよりも悲しいといって私は校舎の焼跡に毎日立ち続けた。単なる火災で焼けても、これとじ状態になる筈なのに、「戦禍」だ「戦災」だということが頭から去らない。「普通の死」と「戦死」とではやはり受けとり方の感懐が違うものだ、と私は信じている。
 小磯内閣辞職、鈴木貫太郎内閣成立、六月米軍沖繩占領、本土決戦決行と決定、八月六日広島に原爆投下、九日長崎に原爆投下、十四日ポツダム宣言受諾、十五日無条件降伏放送、戦争は終った。全国民虚脱状態となる。
 八月三十一日マッカーサー米連合軍司令長官厚木飛行場に到着。占領下の日本が始った。
 八月十五日、敗戦日本の中の本校、灰の焼跡、先生も校舎もすべて過去のものとなって消え去った。
 消えたとはいえ、過去十年間の教師の名前だけは記しておく。

昭和十年  杉浦非水  図案科教授 校長  死亡
      井上折治  学科教授 学監
      村田晴彦  主事 学生監

昭和十年  安田靱彦  日本画科顧問
      中村丘陵      教授 主任 死亡 
      山村耕花      教授    死亡
      郷倉千靱      教授 
      牧野虎雄  油画科教授 主任  死亡
      大久保作次郎       
      木村荘八            死亡
      鈴木 誠     助教授    死亡
      吉村芳松            死亡
      皆見鵬三     助手     死亡
      吉田三郎  彫刻科教授 主任  死亡
      佐々木大樹   (木彫)
      木村和一  図案科教授     死亡
      小川倩葭     講師     死亡
      新井 泉    

昭和十年 野津憲之丞  図案科助手
     大隈為三   学科教授      死亡
     三木 清             死亡
     渡辺素舟     
     木村雄山             死亡
     長瀬 誠     講師    
     末吉菊麿     
     森田亀之助     
     脇本楽之軒            死亡
     岸田日出刀            死亡
     今井兼次     
     佐藤次夫     
     逸見梅栄     
     滝沢信治  軍事教官       死亡

昭和十一年 小池 厳  図案科講師

昭和十二年 高村豊周  学科講師      死亡
      吉田澄舟  日本画科講師    死亡
      磯部 陽  図案科助手 
      大成龍雄  学科講師 
      西谷幸吉  軍事教官      死亡
      金子竹松  
      近藤称吉  学科講師      死亡
      上田畦草  日本画科助教授   
      建畠大夢  彫刻家講師     死亡

昭和十三年 中村研一  油画科教授     死亡
      小松平五郎 音楽講師      死亡
      坂井直芳  学科講師      
      高橋重郎  日本画科助手
      反町博彦  油画科助手
      児島正典  彫刻科助手

昭和十三年 寺内銈三  油画科助手     死亡
      福浦 三郎 図案科助手  
      関口 謙輔    講師
      生田 穣  学科講師

昭和十四年 加藤 泰     
      重信文雄  図案科助手
      田中田鶴子 油画科助手
      石本光太郎 日本画科助教授

昭和十五年 泉二勝麿  彫刻科教授
      里見宗次  図案科教授
      青柳正広  学科講師

昭和十七年 図司義夫  図案科助手
      岩下 洋     
      伴野三千良 学科講師
      長屋 勇  油画科助教授

昭和十八年 吉田謙吉  図案科講師
      塩塚四郎     
      藤川忠治  学科講師
      新 規矩男