三木清

東亞協同体論 昭和研究会

文化政策の目指すところは、国民に創造の喜びをもたらす生産的文化の確立にある。全ての文化は国民的基礎の上に立って初めて生産的なものになる。

文化政策は文化至上主義ではない。文学や美術のみでなく生活文化である。日常性を重んじ文化を生活的にするというのがわが国の伝統である。

外国文化は文化政策に受容される。歴史的生命体である一国の文化にとって、外国文化は環境を意味する。環境の中で育まれてこそ文化はより良きものに成長する。

文化政策は政治の文化性が前提になる。政治は力であるが、文化技術でもある。政策の主体とも言うべき政治に文化性がないならば文化政策は考えられない。その意味で政治家は芸術家でなければならない。

わが国の政治に新風を吹き込むものは何よりも文化政策である。官僚政治の弊害は文化性の欠如により政治家が政治問題の心理的側面に無理解なところにある。.

1897年 兵庫県揖保郡平井村に生
1921年 京都帝国大学を卒業 京都学派西田幾多郎 同期生に天野貞祐
文化学院の講師 大谷大学、龍谷大学の講師 
1922年
ドイツに留学 岩波茂雄の出資 北れい吉と合う
ハイデルベルク大学 リッケルト 新カント派哲学

マールブルク大学 マルティン・ハイデッガー 
不安の哲学  ニーチェやキェルケゴールの実存哲学への興味
1927年 法政大学文学部の哲学科主任教授 日本大学および大正大学の講師
1928年 月刊理論雑誌「新興科学の旗のもとに」三木清、羽仁五郎ら
1929年 東畑喜美子(25才 1936没)と結婚。杉並区高円寺に新居
帝国美術学校の講師
1930年 日本共産党に資金を提供したという嫌疑によって検挙 7月に起訴されて11月初旬まで豊多摩刑務所に拘留
「昭和研究会」常任委員 近衛文麿の政策研究団体 憲法の範囲内の改革 既成政党反対 ファッショ反対
1932年 文化研究会委員長「協同主義」多文化主義
「東亜協同体論 新体制運動」
東アジア地域において民族・国家を超克する協同体の建設を主張
排他的・閉鎖的なナショナリズムの超克 アジアの解 ナチズム・ファシズムとの相違 日本の指導的役割
協同体の建設と表裏一体に進められる日本国内の改革の必要性
「日本の世界史的使命は、リベラリズム、ファシズムを止揚し、コミュニズムに対抗する根本理念」を把握することであり、
これを空間的に言えば「東亜の統一」であり、時間的に言えば「資本主義社会の是正」である。
 
1935年 「読売新聞」毎週火曜日の夕刊「一日一題」欄に「時代と道徳」連載始める。
多摩帝国美術学校の哲学講師
1936年 「読売新聞」毎週火曜日の夕刊「一日一題」欄に「現代の記録」連載始める。
1938年 人生論に関する随想を「文学界」に連載
「読売新聞」毎週火曜日の夕刊「一日一題」欄に「続現代の記録」連載
1939年 小林いと子(1944没)と再婚
1940年
「岩波書店」より「哲学入門を刊行
1941年 「都新聞」に「道徳の再建」を寄稿
1945年 3月28日 警視庁に検挙 治安維持法違反
6月12日 検事拘留処分 巣鴨の東京拘置所 中野の豊多摩刑務所に移
      村田晴彦が三木清の消息をたずねて特高部を訪問
9月26日 終戦から一ヶ月後に獄死 45歳
10月4日 GHQによる人権指令により治安維持法廃止
1997年 龍野市名誉市民

三木清レリーフ・歌碑・哲学碑 たつの市の白鷺山公園哲学の道
 

学校や教師を信じなかった私は書物や雑誌を信じた。そして書籍の中でも偉大なる人々が心血を傾け尽くて書いたものを顧みることは、旧思想との妥協者として謗られる恐れがあったので、私は主として虚栄心のためあるいはパンのために書かれた一夜仕込の断片的な思想を受け容れた。なんでも新しいものは真理であると考えられるような時代が私にもあった。私はいわば犬の智恵をもって人間の智恵を疑ったのである。私は少しでも異なったことをいう人の名をなるべく多く記憶したり、ちょっとでも新しいことを書いた書物の題をなるべくたくさんに暗記したり、ただそれだけでいわゆる旧思想が完全に破壊され得ると考えていたらしい。