リズムの構造 中井正一 


 1

『レ・ミゼラブル』の中に次のような一節がある。「もはや希望がなくなったところには、ただ歌だけが残るという。マルタ島の海では、一つの漕刑船が近づく時、櫂の音が聞える前にまず歌の声が聞えていた。シャートレの地牢を通って来た憐れな密猟者スユルヴァンサンは『私を支えてくれたものは韻律である』と告げている。」
 詩が有用か無用か、それは論ずるにまかせて、それがこうした涙の中に事実存在しつづけたことに対して、私たちの深い関心がある。芸術がそれみずから、そしてそれに関する理論が、いかなる過程のもとに、私たちにもたらされているかが、今、問題である。

 2

 一般に自然的現象ならびに肉体的現象における反復現象を、数的構造に射影して解釈することによってリズムを考察するしかたがある。ロッツェ、コーヘンなどの美学者をその中に数えることができるであろう。
 反対にこれらの反復現象を生命的構造に射影して解釈するしかたもまた可能である。ヴォリンガーの Bewegungsausdruck の考えかたはその方向を指し示すであろう。
 さらにまた、その反復現象を、歴史的構造に射影して解釈する立場もある。ギンスブルグ、マーツァの考えかたがその方向を指し示す。
 第一のリズムの解釈のしかたは、数的本質構造に現象の反復性を射影することによって、存在の内面を見透すと考える考えかたである。それは、一言にしていえば、函数的等値的射影をもって、あらゆる領域への関連をはたす数的構造を存在の内面的構造として考える考えかたと歩を同じくしている。ルネッサンス的主知性がそこに長く尾を引いている。デカルト、ライプニッツ、スピノザを貫く数学性よりはじめて、体系論者としてのカント、さらに新カント学派のすべてがその連りの中に数えらるべきである。
 かかる考えかたよりもたらされるものは、ロッツェの時間計量 Zeitmessung としてのリズムの考えかたが代表的である。すなわち、時間の客観的法則性の人間的認識がそこにある。すなわち質的なるものの量化がその根本的考えかたである。
 この考えかたはそれがすでに一つの誤謬であったのにもかかわらず、時代ならびに芸術を支配してしまった。例えば、この考えかたより出発して、音楽そのものさえ数的に一定化するの危険にまでもたらしめた。しかもこのリズム論が今の一般のリズム論ですらあるのである。
 このリズム論のもつ危険性は、相対性理論があらわるるにいたって露わにされたとも考えられよう。すでに時間そのものが、ものの動きより生じ、グリニッジ天文台の時計はその一つの便宜的説明にしかすぎなくなった時、リズムの根底をなしている音楽的メトロノームは何を意味することとなるか。時計的俗衆的時間になぜに音楽がその支配権を藉さなければならないか。
 ここにこの考えかたへの難点があると考えられる。待てば千年といったような、時間の内面を構成する距離の人間学的構造にまず視点が向けらるべきであったのである。かかる数学的リズムの解釈によっては、それは一つの運命的寂寥すらが、リズムの内面に規定されて、数多いリズムそのものの構造の展望にとっては一面的不自由性をすらあたえることとなる。それはいわば単に過去の反復をのみ意味し、機械的であり、蓋然的であるにすぎない。
 外国歌謡を習った子どもに、日本の三味線のリズムを教えることがはなはだしく困難であると一般にいわれている事実は、あるいはここに起因するのではないかと思われる。ルネッサンス的主知主義が人の情趣的領域に数学的解釈を侵入せしめたことのもたらす誤謬が、ひいては音楽そのものの冰れる数学化をもたらしたといえるであろう。そのことがルネッサンス以前を保持する東洋的なるものと相抵触するとも考えられるであろう。
 しからば東洋的リズムをも解釈の範囲にまで置くことのできる解釈学的立場は、いずれにそのシュテルングを置くべきであろうか。

 3

 ヴォリンガーのいわゆる Bewegungsausdruck すなわち「運動の非物質的表現における物質の克服」の考えかたはリズムの解釈にとっては他の道を指し示すものである。そこではすでに時間の客観的法則化ではなくして、むしろ時間の主観的把握の姿をもってあらわれる。さきに射影の概念が意味したものは、これでは邂逅の思想をもって更えることができるであろう。さきのものが質の量化の過程をたどっているとすれば、これは量の質化の方向をたどるともいえよう。すなわちそれはすでに自然数的な加数ではなくして、無理数的な切断の無限をも連想せしめる。すなわち、それはロッツェの時間計量 Zeitmessung ではなくして、時間切断 Zeitschnitt とも解釈できるであろう。というのは、リズムに対する東方化を意味する。例えば東洋的思想における、念々という言葉において示されるごとき、時の内面的無限において何物かをねらうにあたって、一刻もさきにすることもできず、一刻も遅れることもできないところの、法機の極促を意味する。それがその中にあることで、初めてあることを知ることのできる真の「内」を知るこころである。存在「内」の意味は、かかる「時の会得」において初めて理解される。日本語において、「 」の意味するものがかかる構造をもつ。間が合う、間がはずれる、間が抜ける、間がのびるなどのものがそれである。それは空間的領域にも融通し、また社会的領域にも例えば仲間、間に合うとして用いるごとく相入する底のものである。
 かかる間の構造は、存在の実存在的理解にあたってその機にみずから身をひるがえして移入せる場合、その身心の脱落における深い安慰なる緊張、一言にすれば、「内」なる意味の味得である。それは、念々常懺悔ともいうべく、無限の深まりをもって味わわるべきである。一度の許容が、再びの臭味となり、三度の放下となる。かくて憶念の心常にして畢竟の味にまで味到しつくさんとする深い時間の構造でもある。
 それは、音楽のようやく技の熟するにいたって、師の「許し」「伝授」などの形式をもって伝えらる底のものである。数的リズムはここにいたっては、一つの理解の階段にしかすぎない。それをあえて乱すのではない。ただその内面なる無限の距離に面するのである。ここではすでにリズムの原始形態であり、単に時間的に解釈されたる呼吸、歩み、血はすっかり異なった意味を盛ってくる。いわゆるイキが合う、あるいは呼吸の会得の場合、音楽はすでに拍子だけでは解釈がつかなくなってくる。拍子の内奥によき耳だけが味到せんとする呼吸が内在する。それは腹八分目に吸いたる息を静かに吐くにあたって、その一瞬の極促において経験する阿吽あるいは世阿弥のいわゆる律呂の意識でもあろう。しかし、その意味の根底にはすでに生理的呼吸を遠く超えて、生そのものを通路として、存在の本質にただちに横超する気分としての本質理解が内在するといわなければならない。存在の理解の Wie を存在現象の Was の中に自己表現的に邂逅すること、そこに仮象存在 Paraexistenz の深い意味がある。そこでは気分は気合ともいわるべき構造をすらもつ。そこでは歩みとは実に白露地への躍進と乗り越え berstieg を意味する。スポーツの愉悦の大部分はかかる本質現象の技術的領域における邂逅において理解できる。スポーツでストロークと称するものはあきらかにかかるリズムの深い構造に邂逅する。テニスでは一打であり、ボートでは一漕ぎである。しかもそれがすべて一刻一刻の全生命を意味するのである。一つ一つの跳躍を意味する。それは単に拍子をもってしては解きがたきものが内在する。一ストローク一ストロークの内に真に「内」を見いだしうる無限境がある。そこにこそ深いリズムの内的構造があると考えられる。
 かくて、ここではリズムの原始構造である呼吸、歩行、脈搏などのものが単なる拍子としての時計的時間構造をのがれて、むしろ量的なるものの質化への方向をたどって、新しき解釈の領域にその形態をととのえる。和歌、俳句のリズムはかかる意味において捉えらるべきである。そのもつ呼吸はすでに肺を越えている。

 4

 こうした存在論的解釈とさきの数学的解釈の二つのものの根底には、深く考察することによって、ルネッサンスの主知主義と、それに次いであらわれたバロックの主情主義の二つのものの契機をそこに見いださしめるがようである。宗教の暗黒の中より、自我を発見せしめしものは自然であり、科学であった。理性がそれの導火線となった。ブルーノーよりデカルトをさらにカントを見透す線はそれである。
 しかし発見されたものは、自我である。新たに発見されたる発見的存在である。明暗を爆烈せしめ、激しきものの根源となり、新しき闇、神秘の基礎となる存在の内面である。ベーメよりフィヒテを貫く線がそれである。
 これらのものは、すでにフランス革命の勃発以前に発生したる契機であると同時に、すでに個人主義文化の二つの大いなる契機でもあった。いわゆるブルジョワジーとは一つのアンチノミーである。具体的歴史的過程において事実存在するがゆえに、そのアンチノミーは弁証法的とよばれもする。ブルジョワジーとは、個人の発見と個人の自己分裂の二つのものを意味する。
 個人の発見は科学が導きだしたものであり、カントがその成立を立証せんとしたものである。
 個人の自己分裂は、すでに自我の概念の成立とともに始まっている。フィヒテがその槓杆となったところのものである。個人の成立はその誕生の日にすでに否定の槌の下においてなされている。それはイロニーであり、それは動座標的な一つの動きのほかの何ものでもない。
 かかる滑べれる地盤の上に成立する思想的建築物は、一歩その目標をあやまれば裂傷を受ける。今のいずれの思想がその傷めるものを嗣がないといえよう。
 存在論的考察の内面には、その鋭き視点の貫きにもかかわらず、いいしれぬ戦後的思想がその背後を覆うている。塹壕の臭いがする。
 瞬間への信仰的な愛着。執拗な個人性への付着。はかない偶然性への戯れの驚き。かかるものがすることのなくなった個人主義文化の美しい幻である。
 かかる瞬間性と個人性と偶然性は、その最もよき組みあわせを恋愛の姿においてもっている。愛のたわむれ、心中のもつ気紛れ、そこにブルジョワジーの美しい夢と華がある。リズムもそのコンビネーションの一つの姿としてあらわれる。存在論的リズムの解釈はその様式と共にかかる一点に凝集する。その美しさはその様式の美しさであり、その醜さはその様式の醜さである。リズムならびに韻律はかかる文化形態においては、かかる様式のもとに構造をもつ。そこでは自然と肉体現象の反復を邂逅のもつ美しさとして理解する。宇宙的さまよいの、永遠の虚無の中に、二つのものが同一であることのもつ欣び、その偶然のもつ輝かしさ、瞬間のもつおごそかさ、他のものでなくそれが自分であることの尊さ、そこに韻律とリズムのもつ美しさがあるのである。自分で自分を求めてさまようそのさまよいの中にようやくみずからにめぐりあうことのできた悦び。そこに、時の再びの邂逅としてのリズムの本質を見いだそうとする。かくて永劫回帰こそ、真のいっとう大きな韻律となる。かかる存在への戯れをこそ、 仮象存在 パラエクジステンツ としてのリズムの現象として私たちはもつといえよう。念々に発見されゆく発見的存在としてリズムはその意味をもつのである。
 しかし、かかるすべてのものはすでに個人主義文化における、否定されたる自我、孤独なる自分、距てられたる個人の上に成立するところの様式である。
 今、しかし、すでに、その分裂の上に、さらにより大きな分裂が、その重圧を加えつつある。

 5

 今、一つの考えかたが残っている。
 それは、歴史的考察である。
 歴史が歴史の上に載っているごとく、時間が時間の上に載っているごとく、リズムもまたリズムの上に載っているのではないかという考えかたである。
 あらゆる時代に時代の様式があるように、あらゆる歴史論が歴史それみずからの中に転ずるように、リズムもまた、時代の様式の中にその構造を 変容 メタモルフォーゼ しつつ発展するのではないかという問いは、実に数学的解釈ならびに存在論的解釈とは全然異なった構造をもつ。存在論で集団的現象が man の構造をもつことによって、問題が常に個人主義的形態をもってくる。レーヴィットによって、他の意味においてルカッチによって、ある程度までその方向への展望がひらけつつあるにはしても、本質的に解釈の視点が個人性をのがれることができない。そこで歴史的集団の問題がその方向より遮断されているのではないかという懸念を私たちにもたしめるものがある。リズムがリズム自体を時間構造の根底である歴史的推移によって変換を要求せられつつあるのではないかという問いは、現在の美学論にとっては深刻な不安でなければならない。

 6

 ここで、私は論法を変えなければならない。
 機能性 Funktion の上より、あるいは、付託統体 Veiweisungsganzheit の立場より論ずるよりも、むしろ Sache としてのものそのものについて、委員会的にあるいは集団研究的に同人あるいは読者に一つの提案を提出するほかはない。一つの肯定をもってするそれは問いである。しかも、一つの実験的観察の報告でもある。報告をもってせられたる問い、その形式でもってより大いなる肯定に向ってよびかけよう。
 数学的ならびに存在論的解釈については、私は自分で提出して、自分で否定した。それについての否定は個人の観念的経験をもってして否定の権利を保持している。しかし、今度は、肯定をもってする問い、疑問記号なき問い、として一つのテーゼを提出する。それは歴史人としての集団性への信頼のもとに個人の部署をテストするの意味である。それは必ず新しき論理学への契機であることを自分は信じている。リズムの問題も、すでにそれが歴史的立場として考察される場合、その主張にあたってもかかる形態にあらねばならぬと私は思う。それは主張が単なる個人的観念論的帰結をもっていないことへの自覚への用心である。

 7

 問題はリズムである。
 リズムが歴史性をもっていることのザッヘ的考察において、よき一つの例を私はここに提出しよう。さきにボートの例をとった。舵手の数学的拍子で漕いでいる場合、そのリズムは数学的解釈の範囲を越える必要はない。しかし、それがよき漕手の内面に立ち入って、一ストローク一ストロークのねらいが安心のいく域にまでねらわれるにあたって、そのねらうこころのきわみにリズムの本質をもたらす場合、いわゆるその呼吸、そのイキはすでに数学的解釈を越えて、すでに人間学的、存在論的解釈を必要とするといわなくてはならない。しかし、それですでに、解釈のつかない場合が生まれてくる。例えば、それは八人なら八人が構成する一艇のタイムの記録が数週間の練習記録において必ず一つのリズミックなカーヴを描くのを経験する。それは野球における打数においてもあらわれるものであり、そのカーヴの底部を一般にスランプという不可解なる語をもっていいあらわしている。それは一人一人の体力においてもすでにあらわるるものがあるが、チームにおいてはその合成ならびに合成以上に一つの性格としてそのカーヴをもっている。そのカーヴの山に試合をもっていく技術が指導者の大きな役目でもある。それは決して数学的なあるいは物理的なものではなくして、微妙な精神力が鋭く働いている。一本の電報がそのスランプをも乱しうるものなのである。しかも、決して個人のいかなる孤立したる努力もがその集団の喘ぎ、苦しい脈搏、重い歩みを左右することは困難なのである。かかる潮の増減、波搏ちこそ、何ものもが解くことを遮断されたる深いリズムの内底でなくてはならない。重い重い多くの数かぎりない集団の地ひびきする足音、すなわちテンポあるいは盛り上がりまた世阿弥のいわゆるしづみともいわるべきものなのである。いかなる楽器もが表現できない。トーキーが初めて表現できるかもしれないところの歴史の深い内面の暴露なのである。
 それはすでに歴史的集団的歩みのもつ反復性である。そこではボートにおけるように記録的報告と、それについでなされる企画的実験、それらのものが数学的機能的目算と、存在論的付託的目標によって繰り返さるるのである。常にそこでは、清算と企画、過去と未来が一つの実験性をもってそのテンポの中に混入する。それは単に機械的ではなく、また個人的でもなく、まったく集団的である。そして、単なる蓋然性にたよるものでもなく、また偶然性でもなく、必然性に向っての戦端である。
 それは来たるべき時代の歴史的形態においてすでにそうである。あらゆる計画は常にかかる記録的カーヴのリズムに向って厳粛であるはずである。
 それがはかりしれないのは、人間の無知、すなわち機能的凾数の計算の不正確と、付託的目標の見透しの不明のゆえである。記録と企画が、そのすべてを乗り越えるはずである。そして人間が何であるかを学び問い、会得していくのである。かかる喘ぎにおける呼吸が、人間なる無限なるアンチノミー的構造を見透す重き歩みでもある。それを人々は弁証法とよんでいる。歴史性とよんでいる。私たちの未来のリズムの内面にはかかる集団的問いへの喘ぎが潜んでいるといわなければならない。
 自由通商的個人主義では盛りきれない組織性がすでに時をしっかり掴んでいることを私たちは一瞥にして知ることができる。そしてその喘ぎと脈搏と歩みがいかに重く、その潮の干満の浪足がいかに苦しいかを知っている。それらのものが私たちのリズムに向って喚びかける時にその情趣は、まったくそれはトーキー的である、あるいは一般に真空管的でもある。
 かくて、リズムをテンポとして、換言すれば歴史的形態の構造を背景として、それへの一瞥をもってする見透し Durchsicht として解釈することは、私たちの今のリズムへの理論的検討として見のがしがたき一つの任務であることを自分は信ずる。そしてかかる見透しのもとに、リズムの原始形態であるすべての自然的肉体的にあらわるる反復現象は常に新たなる風景として、現象として、 仮象存在 パラエクジステンツ の中にもたらされつつあるのを知るのである。決して自然を芸術が模倣するのではなくして、芸術を自然が模倣するのであるというワイルドの語を、再びここに想起してこの稿を閉じよう。終りにこの小論の俯瞰図を掲げて、同人ならびに読者諸兄の峻烈なる爆弾投下に備えたい。

 リズムの構造
 原始形態(潮、波、風――呼吸、脈搏、歩行)……(反復)
 (1)数学的解釈
   ○時間――客観的法則性……(射影)
    質――量化
     ×過失性
     ×機械性
     ×蓋然性
 (2)存在論的解釈
   ○時間――現存在的把握性……(邂逅)
    量――質化
     ×瞬間性
     ×個人性
     ×偶然性
 (3)歴史的解釈
   ○時間――弁証法的構造……(記録―企画)
    質――量――質
       /過去性
    企画性
       \瞬間性
       /機械性
    集団性
       \個人性
       /蓋然性
    必然性
       \偶然性

*『美・批評』一九三二年九月号