北昤吉の衆議院議員選挙出馬と齋藤長三

北昤吉は大正七年九月から十一年十一月までの欧米留学から帰朝した後、早稲田大学からの復帰要請を固辞し、在野の哲学研究者・評論家として活躍する道を選択した。

大正十五年七月には「学苑社」を設立して西洋哲学研究と紹介に努め、また日本新聞編集監督兼論説委員に就任するとともに、大東文化学院教授兼大東文化協会比較研究所主任・大正大学教授(後に講師、昭和十三年まで西洋哲学を担当)に招聘されるなど活躍した。著作活動も旺盛で、

大正十三年から昭和三年までの間に、『妥当性の哲学』、『西洋哲学史改版』(翻訳)、『哲学行脚』、『哲学概論』、『昭和維新』、『人間観』など多数の研究書・翻訳書・評論書などの著作を相次いで刊行した。この他にも「改造」などの雑誌に多数の論文・評論を発表するなど八面六臂の活躍を行った。その後も多くの著作・論文を残している


昭和三年六月、評論雑誌「祖国」の創刊の辞を発表したが、昤吉は創刊の理由を、「祖国危急ノ秋ニ際シ超然タルヲ誇ラントスルガ如キハ真ノ学徒タル面目ニ」もとるとして、閉塞しつつある日本の難局を打開することを目指し、同年十月に創刊号を刊行した。
編集方針のうち、「今日極端ナル左傾的思想及右傾的思想ノ存在ハ事実ナリ他山ノ石トシテ之等両極ノ思想ノ紹介ヲモ閉却セズ」「政党政派ヲ超越スルモ消極的中立ヨリハ寧ロ積極的態度ヲ採リ一面既成政党ノ悪徳ヲ指弾スルト共ニ他面共産系分子ヲ包蔵スル一部ノ無産党ヲ排撃セントスル」「政治、経済、外交思想、教育、婦人、社会ノ諸問題ニ就テ一流専門家ノ時評ヲ連続掲載シ以テ一貫セル思想的傾向ヲ徹底セシメントス」の三か項目は、雑誌「祖国」の特色を明確に示している。
寄稿者は学者・政治家・実業家など多数に及び、思想的にも自由主義者・社会主義者(左翼)・国家主義者(右翼)など多彩であった。昤吉は毎号にわたり、論壇・時評壇で鋭い時局批判を展開して注目を集めるようになっていた。
「祖国」は創刊から昭和二十年三月までの間、七年六月から九年五月までの二年間外遊のために休刊した以外は毎号刊行された。発行部数は七年五月までは毎号一万部、九年五月再刊後は約三千部であった。昤吉は「祖国」再刊にあたり、「新『祖国』は旧『祖国』と異なって、祖国会の純機関誌として、主として会員のみに配布する」と明言している(「祖国」昭和九年五月号)。
「祖国」は創立当時の啓蒙的評論雑誌から、昭和九年以降は北昤吉を信奉する思想団体「祖国会」の機関誌へと変貌していった。昤吉が主宰した「祖国会」は全国に会員を有する思想団体に成長していたが、新潟県支部の会員は昭和六年六月段階で約二百七十人であったといわれるが、会員は教員・県会議員・町村長・青年団幹部などが主体で、やがて五百人に到達する勢いであった(「祖国」昭和六年八月号)。
会員は昤吉が後年、衆議院議員選挙で新潟県第一区から立候補した時に強力な支持者となったのである


哲学者・評論家(言論人)・教育者の顔を持つ昤吉が、最も熱望していたのは政界への道であった。

昭和三年二月二十日執行の普通選挙法に基づく最初の衆議院議員選挙(第十六回総選挙)で新潟県第一区(新潟市・西蒲原郡・佐渡郡選挙区で定員三人)から立候補する決意を示したが、恩師、先輩、友人などの反対で断念した経緯があった。

しかし、政界進出の夢は断ち切れず、昭和五年二月二十日執行の第十七回総選挙には、東京府第五区(荏原郡・豊多摩郡・大島・八丈島選挙区で定員五人)から中立系で立候補した。

この選挙区は荏原・豊多摩の両郡には都心に通勤する知識人が多く、無産政党の地盤が比較的強固であった。この選挙では、民政党・政友会の既成政党から八人、労農党・社会民衆党・日本大衆党などの無産政党から三人、中立系から北昤吉が立候補した。
東京府第五区での昤吉の評価は「北氏は、思想家としては活発欲が強く、心熱はあるが気が多い。どちらかといへば志士型、元気で健康で、雄弁はお手の物である」とされたものの、新人で泡沫候補扱いであった(「東京日日新聞」昭和五年二月十三日)。
選挙の結果、組織票を持たない昤吉は4,873票に止まり、第十位で惨敗した。ちなみに大山郁夫(労農党・元早稲田大学教授)は19,303票を得て第五位当選を果たした。なお、戦後の社会党で幹部として活躍した加藤勘十(日本大衆党)は18,121票(第六位で次点)、松岡駒吉(社会大衆党)は9,742票(第八位)を獲得したが落選した(衆議院事務局「第十七回衆議院議員総選挙一覧」)。
第十七回総選挙における北昤吉の政見は以下のようなものであった。
第一政治
一、大選挙区制、比例代表制の採用。
三、枢密院の改廃。
五、対支外交の刷新。
二、貴族院の根本的改革。四、地方自治における党弊の打破。
第二経済
一、官業の整理、民業の進展。
三、中小商工業者の利益増進。
五、時勢に応ずる軍備の伸縮。
七、税制の徹底的革正(イ、所得中心の高率的累進税ロ、奢侈税の新設
第三社会
一、生産奨励に依る失業防止。
三、公費診療施設の完成。
五、集団的移民の保護奨励。
第四教育
一、國民教育の涵養。
三、官学の整理。
五、文化の中央集権打破。
二、扶養者なき老人寡婦孤児の公費扶養。
四、工場法、小作法の制定。
二、教育の機会均等。
四、補習教育、青年訓練の徹底。
二、勤労階級の生活安定。
四、合理的統制に依る産業の能率化。
六、国産奨励、外来奢侈品の防止。
ハ、地租軽減営業税廃止
ニ、消費税の軽減と廃止)。
(峰島旭雄「哲学から政治へ」『近代日本思想史の群像-早稲田とその周辺-』所収)
この政見は当時の経済恐慌と軍部ファシズムの無気味な足音が聞こえそうな国情にあって、かなり大胆に日本社会が内包している諸矛盾を鋭く指摘しており、既成政党の限界性を打開しようとする斬新なものであった。
政界への初陣を飾れなかった昤吉は、新潟県第一区からの出馬を企図して、「祖国会」新潟県支部会員とも連絡を取り、昭和十一年二月二十日執行の第十九回総選挙への立候補を準備していた。
この頃の新潟県第一区は、佐渡出身の山本悌二郎(政友会)と野澤卯市(民政党)が競合していた。山本悌二郎は農林大臣を務めた政界の大物であるが、野澤卯市も県会議員から衆議院議員を経験した民政党の古豪であった。
山本は明治三十七年三月一日執行の第九回総選挙から、大正十三年五月十日執行の第十五回総選挙まで七回連続の当選を果たしている(佐渡郡は第十五回総選挙まで小選挙区で定員一人)。大正六年四月二十一日執行の第十三回総選挙では山本と野澤が一騎打ちを演じ、山本が1,694票を獲得して野澤(1,246票)を降している。また、普通選挙制が採用された第十六回総選挙(昭和三年二月二十日執行、佐渡郡は新潟市・西蒲原郡と共に第一区で定員三人)で再度両者は戦い、山本は田辺熊一(政友会)、安倍邦太郎(民政党)、と共に当選し、野澤卯市は次点で苦杯をなめた。
第十七回総選挙(昭和五年二月二十日執行)では、野澤卯市は22,329票を得て最高点当選を飾り、松井郡治(民政党)、田辺熊一(政友会)、と共に当選して、次点(13,962票)の山本に雪辱した。
第十八回選挙(昭和七年二月二十日執行)には野澤は立候補せず、新潟県第一区は山本・田辺・山田助作(民政党)が無投票当選して、山本は返り咲きを果たした。
昭和十一年二月二十日執行の第十九回総選挙に当たり、佐渡政友派は高齢のために票数を減らしつつあった山本の当選を期して、政友会の老政客齋藤長三らは以下のような山本悌二郎推薦書を支持者に出した。
拝啓
珍らしき大雪にて車馬の通行も絶え外出も出来ざる様の有様貴家幸に別段の御変りありませんかかヽる時節の選挙しかも粛正々々と申して棄権は出来ず誠に選挙人の苦労も並大抵ではありません。偖て今回の選挙に山本悌二郎氏が立候補をしました御存じの通り同氏は尊皇愛國主義者にて國家の為には巨万の財を抛ちても顧みざる性格にて其の精神の潔白なることは国士としても党人としても他に見ざる人格なることは世間周知のことであります而して若し政友会内閣が出来るとすれば確かに大蔵大臣になれる資格を有するのでありますから政党政派を超越して人格者としても亦大蔵大臣としても申分のなき此人を佐渡より出せば実に佐渡人の名誉と思ひます大蔵大臣になりたる後は貴族院の勅撰議員となりて政界を勇退しアトは中川健蔵氏なり北昤吉氏なりをして我が郡の後継者と為さば実に山本氏の有終の美を為さしむものであり又後進の途を開くものでありますから斯くてこそ佐渡人の郷土愛の美なる点佐渡人の軽薄ならざる点なる事を深く信じて居ります此際私が深く効能書きを述べ立んでも諸君が疾くに御承知の事ですから何卒二十日の選挙には清き一票を同氏に與へられん事を御願ひ申上げます。 昭和十一年二月(推薦人氏名九人略)(齋藤長三「佐渡政党史稿」昭和政党之巻第四号付録)

また齋藤長三は、立候補を準備していた北昤吉に宛て、十一年一月二十四日付けで
「昭和十年八月三十日山本氏ヨリ上京セヨトノ電信アリ、上京セシニ山本須田名畑ノ三氏ヨリ明十一年惣選挙(解散セズトモ十一年二月二十日ニハ定期改選デアルノダ)ニハ民政党ニテハ候補ヲ立テズ山本ヲ支援スベキニ付、本年九月二十五日執行ノ県会議員選挙ノ内ナルベク思へ共中川氏ハ民政ニ属スルガ故ニ小生ハ之ニ與ミセズ、貴下ナレバ佐渡人トシテハ民政以外ハ一人モ故障アラザルベク、夫レニ我ガ政友会ガ貴下ヲ支援セバ相当優勢ナルベシ、シカモ貴下ハ年歯老ヒタリト云フニアラズ敢テ貴下ノ御意見ヲ問フ」
との書簡を送付したが、文中の山本とは政友会代議士の山本悌二郎、名畑とは山本の選挙長を務める名畑清次、中川氏とは佐渡郡真野町出身で北海道長官・東京府知事・台湾総督を歴任した官界の大立て者であった。

齋藤長三は北一輝・昤吉の父慶太郎、その妻リク(北兄弟の母)の弟本間一松(北兄弟の叔父)と共に佐渡政友会の老政客であった。さらに齋藤長三は「当時、北昤吉氏が佐渡より出馬するとのことを新聞紙上に散見するをもって之れを阻止すべく仝氏と書面を往復したれども遂に目的を達する能はざりし(中略)北氏は中立を標榜して立候補せるに対し民政党は不徳にも政友会との協定を無視してこの中立の北氏を援くるに至れり(中略)政民両党の協定とは何んぞや元より政民両党を公然代表したる委員といふやうのものヽ取り極めにあらざれども最高幹部に於て県会議員選挙に際し三人の県会議員を民政二人政友一人とし衆議院議員選挙には政友会を支援すべしとの密約ありしものなり然るに北氏の立候補は野澤氏の勧説によるものなることは北氏の拙者に送られたる書状にて明確なり」と述べて、佐渡政友会・民政党の間に密約が交わされていたことを明らかにしている。北昤吉は齋藤長三からの前掲書簡に対し長文の書簡を齋藤に送付して、今次総選挙には断固出馬することを明言している。長文であるが昤吉が立候補にあたり率直な心中を明かした書簡であるため紹介しておきたい。

拝復
貴翰拝誦致し候、昨年県会議員選挙にからみ奇禍にかかられ更に火難に御遭遇重ね々々厄難老母並びに荊妻舎弟等と語り合ひは同情之念切なるもの有之候。
小生立候補之事につき縷々申し越され誠に恐縮に存じ候、実は普選第一回の時佐渡より立候補(中立)せんとせしも、山本先生当時大臣にて大臣の時帰郷政戦を欲せずとの意向あり、又本間一松よりも自分の顔が立たぬとあり野澤・故山田氏の応援あるにも拘らず断念致候、その当時東京府第五区の府会議員五名中三名は牧野を止めて小生を公認候補に推薦致し度と申されしも辞はり候。
普選第二回の時(濱口内閣)武田徳三郎氏よりも小甚旅館主人を通じ山本先生後援の下に高田方面より政友候補として立候補することを勧められしも辞はり、中立として第五区より打って出でしも中立は全国的に全滅の際とて小生は府下中立の最高点なりしも見事落選、四年間以上を棒に振り一時財政難に陥り候、普選第三回目の時は満州事変直後にて五区有望なりしを以て安達氏外有望軍人応援の下に中立として出馬を勧められしも東京は仮に当選しても種々の事件を頼まれうるさく感ぜられ候間断念外遊の途につき候。
此度は粛正選挙にて経費も要らず或は東京からかと存ぜしも、美術学校移転問題にからみ小生附近の政友会の有志と正面衝突既に半年喧嘩をつづけ、彼等一同敗退しつヽもあり候へ共之が為一万五千円も無用の金を費やし候、従って小生は小川三土両氏と親交あるも住居地に於ては政友派よりも寧ろ同盟系(國民同盟)を援け居り候(前回立候補せば小生の事務長たるべき人が小生支持の下に市会議員となり昨夏死去致し候)、之に加へて後藤伝兵衛・牧野賎男等は小生五区より立候補せば新潟県人佐渡人の投票分裂して困るから是非佐渡よりとの希望切なるもの有之候。
御申越の如く小生は親戚関係よりせば政友会系多数なるも、旧自由党系はともかく鈴木中心の連中には小生必ずしも好意を有せず、鈴木引退後ならば兎も角鈴木一派は余りに政権欲あり非常時の挙国一致を害して小生の執らざるところに候、若槻内閣が満州事変の重圧に倒れ犬養横死せることは単独政党内閣の不可能を物語るに鈴木一派は依然悪夢を夢みつづけつヽありと存じ候。
佐渡にては東京の佐渡青年も佐渡の青年も是非小生に立てと勧説し、土屋老、松瀬君も両津町の融和、佐渡の発展の為め小生ならばよからんとの意向あり、野澤氏も衷心より小生を支持する考へとなり居るらしく、西蒲原も教育会へ此度出演し祖国会員も多きを以て小生の立候補を勧め候。
県民政支部、民政本部も小生の民政の公認を熱望するも、佐渡には政友に親戚関係多く湊の父の系統の政友、河原田諏訪町の高橋の系統の政友、新穂の本間の系統の政友に民政党候補として対立するのは不本意なれば飽くまで中立として立ち将来郷土の為に努力して一島一党たることを理想と致し候比較的小生に縁故薄き民政派より推し来たるは、山本先生政友なるが為に止むを得ざる運命かと存じ候。
山本先生大臣の時は困るといひ、逆境の時は困ると仰せらるれば、小生は永久政界を断念すべきことヽ相成り候、早稲田の小生の後輩すら次官となりしもの三名あり参與会あたりは一ダース以上、弟子にても三回当選のもの有之次第にて、山本先生の資力と声望なかりせば小生も政界に相当飛躍或は永井、山道、中野(彼は小生より一年後輩)位の地位は得たるやも知れず候、小生の山本先生に遠慮せるは一に故本間及び貴殿等に顧慮せる為めに候、山本先生も二度も大臣を勤めしことにて政友単独内閣は一場の夢なれば大して前進あるとも見えず、寧ろ後進に途を譲られて御引退なされ勅撰でもなって政友会の好境の時三度目の大臣となることが得策に非ずやと存じ候、山条氏も、川村氏も共に勅撰、鵜沢、小久保氏も同様に候、之は政友内閣の時は勿論、挙国一致内閣の時にても可能と存じ候、政見の相違は抜きにして後輩たる小生等も老政客の晩節の為めに努力すべき筋合と存じ候。
小生も本年五十二歳となり、永井・中野等に比して天分劣れりとは信ぜざるも威望ある山本先生健在なりし為め、政治的には不遇の方に候、従って貴殿の山本先生御同情論は一応情理兼ね備はるも小生の立場にも御理解願上候、山本兄弟は官吏として出世し、北兄弟は浪人として異色あることは望ましき対立なれば、小生決して顕官たらんと欲せず、理想的議院政治家として政争の外に超然とし國家の為めに郷党のために盡さんと考へ候。
小生当選には便宜あることを知りつつ民政へも入党せず、公認をも断はり、更に党よりの金銭的援助も受けず、隠れたる友人の援助の下に法定額以下の資金を調達し得たるのみに候、之にても応援するといふ佐渡及び第一区の有志のあることヽなれば立候補は止むを得ざる形成かと察せられ候、併し応援者の誠意如何を観望中に候間未だ立候補の供託はなさず待機中に候。
御不幸の御見舞を申すべき筈に候へ共右次第にて誤解を受けてはと存じ言葉の上での御見舞に止め置き候。
以上亡父本間高橋時代よりの御縁故も有之候間、貴殿へは包まず隠さず委細を申候次第何卒他人には絶対秘密となし御一人に秘め置き被下度上願候。 敬具


一月二十七日 北光永齋藤長三様 (北昤吉の齋藤長三宛て書簡)
北昤吉はこの書簡で、故郷の新潟県第一区から中立で立候補することを明言し、齋藤長三の今回は山本悌二郎に譲り次回選挙で政友会から立候補するようにとの婉曲な要請を断固拒否した。昤吉の強気な態度の背後には、野澤卯市など新潟県民政党幹部とのかなり周到な根回しがあったようである。この間の事情について、齋藤長三は「民政党にては野澤卯市は立候補せざることに決心し居りたれば他に佐渡より立候補するものなければ、新潟又は西蒲原より立候補せしむべく其候補は県支部へ一任の有様にて支部にて物色中なりし処、本郡両津町出身の北昤吉が立候補せんとて民政党への交渉方を小木の塚原徹へ申来り塚原は土屋六右衛門へ申送りたりとて土屋より野澤へ申来りたれ共、野澤はじめ県支部の幹部には北を知れる者なきを以て支部幹事長たる桑野確治を擁立せんとの説あり、協議中の処へ政友会の名畑清次は昨年県会議員選挙の際民政党へ二人を譲りたる因縁もあれば今回は政友会の山本を支援されたしと野澤に申込み来りたれ共、野澤は前約により立候補せざれ共他の者まで抑止することは出来ぬが今民政党にては幹事長の桑野を出馬せしめんとせるに又北昤吉の懇望もあり此の二人の中何れが可なるやと云ひしに名畑は思ふに桑野は幹事長の要職にあれば相当の勢力を有すべきも、北は佐渡人として知らざるもの多からん況んや新潟西蒲原に於ておやと考へ是非候補を立てざる可らざるものならば北を立てよとの意見を述べ、又土屋は自ら保証の位置に立って頻りに北を承認せんことを要望したるを以て、野澤は遂に北を先づ中立として立候補せしめ民政党之を援助せんとの決心をしたのである。爰に於て北の立候補に対して極力援助を与へて当選せしめたのである。」(齋藤長三「佐渡政党史稿」昭和政党之巻第四号)
と記述している。古豪の地方政客の齋藤長三は山本悌二郎の当選第一主義で行動し、伝統的な政治手法で北昤吉の立候補阻止を図れば、学者肌の評論家と思われている北昤吉は案外達者な駆け引きを使って民政党の推薦を確保したのである。
昤吉は齋藤長三宛書簡で赤裸々に語った政界進出への宿願実現のためには、自身の政治的信念である既成政党への不信感を一時的に棚上げしても、民政党からの強力・支援を得たかったのである。この行動は昭和十五年の政党解散の時に北に混乱をもたらすことになった。
北昤吉にとっては、今次選挙の当選には野澤卯市からの深甚な理解と協力が大きかった。野澤卯市は北推薦の理由を次のように語っている。
党支部並に本部でも私に立候補を慫慂され、私としてもこの際立つことが妥当であるとも考へていたが何分にも健康が許さぬので断念した。しかし國家の現状を顧みれば対外的には
国際連盟、軍縮会議と続けざまに、脱退して日本の名誉は孤立を維持するの重大時局に直面して居り対内的には財政上その他百般に亘りて国政未だ非常時の域を脱せざる状態であるに拘らず、単り政友会は徒らに政権獲得の為に党利党略に没落しつヽあり誠に寒心に堪へない。今次の解散は要するに国政の運行を國民の意思に依りて是正せんとする目的の下に於て行はれたものであり、我党としても飽迄挙国一致の方針を以てこの難局を打開しなければならぬ総選挙であるが故に必勝を期して戦はねばならぬ、かような信念を持って居りこの精神より候補の詮衡を勧めて来たのである。
偶々佐渡郡出身の北昤吉氏に立候補の意志あり、且又氏の抱懐する政治的意見も我党の政策、主張と軌を同じうし特に現下の難局打開に対する精神に至っては全然合致するものありその人格識見、閲歴共に非常時日本の政局を担当するに最適の代議士候補と確信するが故に同氏を支持すべく支部に於ける詮衡会においてこれを認め同氏の立候補になったものである。(「新潟新聞」昭和十一年二月二日)
既に述べたように野澤卯市は民政党の新潟県支部長として、佐渡を地盤とする政友会の山本悌二郎の政敵であり、北昤吉を擁立し山本の落選を企図しようとする側面も否定はできないものの、鋭い政治勘により昤吉に閉塞した日本の打開を期待したとする見解を文字通りに受け取ってよいのではなかろうか。時代は大きく変化しており、老地方政客である齋藤長三はこのような動向をどの程度理解していたのであろうか。
3政党解党をめぐる齋藤長三と北昤吉新潟県民政党の支援を受けた北昤吉(民政党系中立・新人)を含めて、山本悌二郎(政友会・
前)、松井郡治(民政党・元)、田辺熊一(政友会・前)の四人が立候補し、定員三人の椅子を争う少数激戦の選挙戦が展開されることになった。
昤吉を除く三人は古豪政治家で、選挙戦の興味は「第一区の政戦こそは肉弾相打つ鉄傘下の大関相撲の如く手に汗握らせるものがある、候補者の顔触れからいへば民政党は新潟市民政倶楽部の総師松井郡治氏を擁立、政友会は元の農林大臣山本悌二郎氏、政友会総務田辺熊一氏、中立からは我国思想界の雄北昤吉氏で候補の粒の揃っていることからいへば全国何れの選挙区に比しても負けをとらない堂々たるスタッフである。民政の松井氏は新潟市及び西蒲の一部を地盤とし政友の山本氏は佐渡及び新潟市、田辺氏は西蒲及び新潟市、北氏は佐渡を第一に新潟、西蒲の各選挙区を転戦することになるであろうが、最も激戦が予想されるのは山本、北両氏が主たる地盤とする佐渡における一騎打ちで佐渡における得票によって両氏の当落が決定する重大なる戦ひであるから両派とも死力を尽しての大混戦が展開されるわけであるが故郷を一つにする両氏に対し佐渡人の信頼が『我等の大臣を落とすな』と出るか『言論の雄北君を当選せしめよ』と出るか刮目して見るべきものがある」(「新潟新聞」昭和十一年二月八日)と報じられた。豪雪下の選挙戦では、北は得意の言論戦を展開し各地で立会演説会を積極的に実施して支持を伸ばした。地元の新聞は「数から見た言論戦回数・聴衆は無産の三宅氏平均聴衆北氏が断然第一」と報じ、以下のような実績表を掲げた。
回数▲北昤吉18▲山本悌二郎16▲田辺熊一4▲松井郡治 12
入場者数最高最低平均入場者数6,6701,2253411,148
900 30 370150 25 77130 20 85230 20 96(「新潟新聞」昭和十一年二月十五日)
ちなみに、新潟第三区(長岡市・南蒲原郡・古志郡・三島郡・刈羽郡・南魚沼郡・北魚沼郡、定員五人)から立候補していた三宅正一(社会大衆党・新)は、回数151回・入場者数10,803人・最高600人・最低4人、平均71人であった。北・三宅は党派や思想信条は異なっていたが、自己の政見を有権者に積極的に訴える新しい選挙戦を実践していたことがわかる。
選挙の結果、山本悌二郎、北昤吉、松井郡治が当選した。得票数は以下のとおりであった。
当選 山本悌二郎当選 北 昤吉当選 松井 郡治次点 田辺 熊一20,765票18,801票14,969票12,815票
各候補者の地域別得票数は以下のとおりであったが、山本・北の絶妙な集票結果が注目される。
地域新潟市西蒲原郡佐渡郡合計
山本悌二郎6,6953,18910,88120,765
北昤吉2,3867,0389,37718,801
松井郡治11,6083,3065514,969
田辺熊一1,60511,2001012,815
(得票数表は「佐渡政党史稿」昭和政党之巻第四号より作成)
山本・北の二人で佐渡郡の前得票数の99,7%を獲得したのに対して、新潟市を地盤とする松井郡治は新潟市での得票率は52,1%、西蒲原郡を地盤とする田辺熊一は西蒲原郡での得票率は45,3%であった。田辺熊一が次点落選した理由は、地盤の西蒲原郡での得票率が当選した三人のそれぞれの地盤での得票率に比べて低位であったことであった。
なお、佐渡政友会の実力者である齋藤長三は、北昤吉宛の書簡で「拙者は県会議員選挙(昭和十年九月二十五日執行)に際し罰則違反に問はれ保釈中なるを以て警察署の好意的注意にて選挙委員にもならざれば全く運動する能はず、局外中立の姿なりし」との状況にあり、さらに火災などの事故も重なって選挙運動にはほとんど参加しなかった。

北昤吉の衆議院議員としての初質問は、兄一輝が連座したとされた二・二六事件に関するものであった。彼は陸軍首脳部が皇道派と統制派の派閥争いに巻き込まれて、さらに露骨な政治介入に狂奔する派閥対立が事件の原因であるとして、軍部を厳しく批判した。また北一輝、西田税などの民間人が青年将校を教唆したことが事件の原因であるとして、陸軍内部に事件の原因があったことを隠蔽、否認しようとする軍首脳の態度を厳しく糾弾した。
この頃から軍部の政治介入が一段と露骨になり、二・二六事件後に成立した広田内閣は軍部大臣現役制復活を認め、さらには寺内寿一陸相と軍部の無法な政治介入を非難する浜田国松(政友会)との衆議院での「腹切り問答」で総辞職した。組閣の大命を受けた宇垣一成大将は陸軍から陸相を得られずに断念に追い込まれた。結果的には、林銑十郎大将が政友会・民政党からの入閣者抜きで組閣した。
林内閣は組閣から約二か月後の昭和十二年三月三十一日には、「議会刷新ノ為解散ヲ断行スル」として衆議院を解散した。四月三十日執行の第二十回総選挙の結果、基本的には民政党・政友会の既成政党の獲得数が全議席数の76%を占めたものの、前年の第十九回総選挙での81%を下回った。これに対して無産政党の社会大衆党、既成政党から分派した國民同盟、東方会、昭和会などの右翼政党が台頭した。社会主義政党である社会大衆党は、軍部などが主導する国家統制の強化策に反資本主義と社会主義の幻想を見て次第に国策に協力し右傾化していった。
「既成政党の外側と内側に生じた右傾化(革新化=親軍化)の潮流はやがて既成政党を巻き込み、昭和十五年の政党解散への潮流となっていったのである。」(升味準之輔「日本政党史論」第六巻)

北昤吉は第二十回選挙執行前の昭和十二年四月七日、中立系では本格的な議会活動ができないとして民政党に入党したが、この選挙では無投票当選を果たした。ちなみに、新潟県第一区での当選者は昤吉の他に、山本悌二郎、松井郡治であった。
既に述べたように、北昤吉は既成政党とは一線を画す考え方を持っていたにも拘らず民政党に接近し入党したのは、政策が近似していたとはいうものの、野澤卯市などの支援を得て当選するための方便であったことも否定できない。既に第十九回総選挙では、一部から「北は政党解散論者である」との宣伝を流布されたが、これは民政党系中立を標榜して立候補した昤吉の曖昧さを衝いた非難であった。この時は北陣営は以下のように反論したが、北昤吉の既成政党不信は紛れもない事実であった。
北氏は筆にも口にも政党解散を唱導した事実はない。勿論、氏の主宰する雑誌「祖国」にも評論した事なく、ただかって雑誌「雄弁」が「政党解消是か非か」の主題の下に一文を求められた際、松岡洋右、赤松克麿、川崎克(民政党)、田子一民(政友会)の諸氏と共に執筆した。それには「党のためには国家なき政党はむしろ解消すべきも、国家本位の政党ならばこれを大いに助長すべきだ」と主張し、田子一民氏のごときは「松岡氏の如く一も二もなく政党解消を唱ふるのは不賛成だが北氏の論調は正しいと批評したほどであり北氏は政党解散論者ではない」といふにあり、ある人が北氏に対して「流言者を選挙違反として告発したらどうか」とまでいったのに北氏は、自分が政党解消を唱えた事実なき限り斯る虚構の事実を公にしたるものに対しては法の制裁もあり警察当局の取締りもある筈だから、と平然として一言逐鹿戦をかけめぐっている。 (「新潟新聞」昭和十一年二月十日)
昤吉は既に紹介したように、昭和十一年一月二十七日付の齋藤長三宛書簡で「将来郷土の為に努力して一島一党たること理想と致し候」と述べて、既成政党に厳しい態度を示していた。老獪の地方政客の齋藤長三は昭和十三年二月四日付の北昤吉宛書簡のなかで、「(前略)中央政界は今や新党樹立の声頻々たり、然れ共蓋世の英雄ならざれば之を統一すること或は至難ならんも、ソハ時間の問題にて早晩実現するものならんか、去れば小生は此際之れに先んじて我が佐渡を一国一党となし新党樹立の模範たり先覚者たらしめんことを希みて止まざるものに有之貴下の御意見如何に候哉、(中略)佐渡を統一することは小なりと雖も大にして日本新党樹立の先覚者たるものあれば貴下は多少の非難攻撃を排除しても民政党を脱退し佐渡国民を其傘下に統合せしむるの意志無之候哉、若し御同意なりとするも之を実行するに於てや甚だ偉大なりといふべし貴下以て如何となす(後略)」と強調した。(「佐渡政党史稿」昭和政党之巻第五巻)
齋藤長三は昤吉の既成政党不信を逆手にとり民政党からの脱党を勧めたが、その手法は如何にも寝技的であるものの、中央政治や既成政党の受難を逸早く察知して、北脱党の布石を打つ政治勘は刮目すべきものがあった。
北昤吉は齋藤長三に、「(前略)目下中央政界も動揺して近き将来何等かの異変あるべく小生として一身上軽々に動くべき時にあらず、徐ろに中央政界の動きを静観し善処するの外なく候、小生は政民両党の有志と共に大日本運動を発企し相当努力し居り候(後略)」と回答している。昤吉が有志と共に発企したとされる「大日本運動」は新党運動の一つであるが、その消長は明
らかではない。「大日本運動」とは、昭和十三年二月二十一日に明治神宮で結成式を挙げた政治運動組織であった。政界・学界・軍部その他各方面の有力者により発起された運動体であるといわれるが、「荒木大将・建川中将・岡部・山岡・宮田(貴族院)、頼母木・山道・添田・岡野(民政)、生田・宮沢(政友)、簡牛・林(第一)等の諸氏二百余名参集宣誓式を行った」。
(「新潟新聞」昭和十三年二月二十三日)
この後の展開等は明らかでないが、既成政党の閉塞状況を打開して強力な政治勢力の結集をめざす新党運動であったといえよう。昤吉がこの運動に「発企し相当努力しおり」というほどに参画していることから新党運動に関与していたことは明らかである。
北昤吉が民政党代議士として二回目の当選を果たした昭和十二年は、日本が中国侵略を本格化するとともに前年の二・二六事件以後から明確化した既成政党の無力・無能振りが濃厚になった時期であった。
昭和十三年に入ると、近衛文麿首相の「国民政府対手トセズ」の声明によって、日中関係は抜き差しならない状況となり、さらに十四年一月第一次近衛内閣総辞職と平沼騏一郎内閣成立、五月ノモンハン事件、八月平沼内閣総辞職、十五年七月第二次近衛内閣成立と急転して、日本は戦時体制に突入した。
昭和十五年二月二日、民政党代議士斎藤隆夫の衆議院での「支那事変処理ニ関スル質問」で軍部の戦争政策を非難すると、畑陸相が演説取消しを要求した。三月五日、民政党代議士会の斎藤隆夫代議士除名、同月七日、衆議院での斎藤隆夫代議士除名可決、同月九日、衆議院の聖戦貫徹決議可決、社会大衆党の斎藤隆夫代議士除名に反対した片山哲らの除名など軍部の政治介入を原因とする政界の動揺は一段と進行した。
三月二十五日に結成された聖戦貫徹議員連盟(各会派議員百人余)は、六月十一日、各党党首に解党を進言するなど、政党解散の動きが現実化し、社会大衆党が七月六日、政友会久原派が同月十六日に解散した。七月二十二日に発足した第二次近衛内閣はドイツ流の一党支配体制を志向する翼賛体制を推進すると、政党はさらにこれに呼応して、七月二十六日国民同盟、七月三十日政友会中島派、八月十五日民政党、十月二十二日東方会と相次いで解党した。
各政党の新潟県支部でも、七月三日社会大衆党新潟県支部連合会、八月七日政友会新潟県支部、八月十二日国民同盟新潟県支部、八月二十二日民政党新潟県支部、十一月十六日東方会新潟県支部が解党した。
民政党からの脱党の時期を見計らっていた北昤吉は、昭和十五年七月二十五日、ついに脱党した。理由を「ヨーロッパの動乱、支那事変の処理を端倪すべからざる国際情勢に処して、我が日本が世界的東亜新秩序の建設に驀進するためには国内一致新政治体制の樹立は喫緊の急務である。国民は皆均しく此際裸一貫と成って政党人としての変局に処する覚悟がなければならぬ。既成政党は斯る時率先して裸一貫と成って近衛公の提唱せる新政治体制の完整を協力しなければならぬ。斯る見解の下に立て自分は如何に国内一新の機が切迫して居るかを見、本日爰に脱党の決意をしたのである。」 (「佐渡新聞」昭和十五年七月二十五日)として、近衛新体制への協力を明言している。松井郡治代議士も北と同様に七月二十五日に脱党した。民政党新潟支部は七月二十九日に新体制参加委員会を開催し、北・松井の両名は時期を見て挙県一致の行動をとるとの申合わせに反して脱党を強行したことは党規違反であり、後日の常任委員会で処分すると発表した。また同日、佐渡民政倶楽部は帰省中の昤吉を呼んで、独断的行動を非難し自重を求めたのに対して、以下のように弁明したという。
野澤氏はじめ党員諸君の諒解を得ず率先脱党したのは党人の仁義に外れたことは私も認めるが、実際問題としては中央の情勢緊迫は地方に居る諸君には解り難いことだが、今日の時局はかつてないほど逼迫しているのだ、解党も十日早いか遅いかの問題に過ぎず、桜内第二脱党も見透されるが、其時になって私も脱党する位なら三十年来の友人である永井柳太郎氏と行動を共にするのが本当だ、今回の行動は新党促進の落下傘部隊である、党員諸君も見殺しにしないでついて来て貰いたいと思ふ。
近衛公の新政治体制に対しては頭初疑惑の念を持っていたが、此度の組閣にあたり軍略と政略の一致が企てられたこと、胆力識見並び備えた松岡氏が外相に就任したこと、有馬・千石等産組政治運動の中心人物を斥けて石黒氏を農相に据えた等の三点に於て、近衛公の組閣ぶりは、自分の主張と一致するから自分は近衛新内閣を支持する、又此重大時局下に於ける議会人の任務は党派的立場を離れ国家的全体的見地に立って政府を励まし国策遂行に協力するにあって徒らに党派を構へて政府の姿勢を批評するが如きは厳に慎まねばならない、我民政党も遅かれ早かれ解党の運命にある、自分は出来れば党議を経て、さっぱりと解党したいと願っていたが、此度多年親交のある党の長老永井氏が率先脱党して吾々の向ふ処を示されたので、自分も脱党を決意した次第である。 (「佐渡政党史稿」昭和政党之巻第五号)
北昤吉の弁明によると、第二次近衛内閣への期待、非常時での挙国一致政策の必要性、既成政党の解党が必至であることなどから、近衛新体制に期待したのであった。佐渡民政倶楽部は昤吉の脱党を批判してはみたものの、政党解党は必至の状況にあり規律違反処分は立ち消えとなった。
一方、齋藤長三は、「今回の解党は実に感慨無量所謂万感極って口言ふ能はざるの状態であります」と述べ、近衛新体制なるものに懐疑的であった。老境にあった齋藤長三は昭和十五年九月八日の佐渡政友倶楽部解散にあたり「私が政党に関係して以来約五十年、此間に於て所属政党の解散式に列すること前後三回であります。即ち第一回は明治三十一年の自由党の解散式にして、第二回は同三十三年の憲政党の夫れと今回の三回でありますが、前者は憲政党を作らんが為めの解党で、後者は政友会建設の為の解党でありましたから、左程にも思はなかった、否な前途大なる政党となって憲政政治の進運より考へて寧ろ喜んだのであった」
と述べて、憮然たる態度であった。この時長三は七十四歳となっており、この頃火災に遭ったり、選挙違反で入獄したりで苦境にあったのである。
齋藤長三は慶応二年(1866)一月、齋藤傳十郎の長男として石田村で生まれ、戸長役場筆生を経て家業の活版印刷業に従事した。
明治二十二年に結成された自由党系の新潟県組織の越佐同盟会に加入して以来、佐渡自由倶楽部・立憲政友会と一貫して自由党系の地方政治家として活動した。また明治三十年郡会議員、三十六年から四十年まで両津町長、大正四年県会議員、大正十四年・昭和七年に二宮村長を務めた。
(相川町史編纂委員会『佐渡相川郷土史辞典』)齋藤長三は政党の解党を機会に佐渡政党史の編纂を企画して、有志八十余名に以下のような招待状を送付したが、昭和十五年十月二十日、会場の河原田尋常高等小学校に参集したものは十二、三人であった。
拝啓追々秋冷相加はり候処愈々御健勝奉慶賀候思ふに佐渡自由党の始めより今日迄政友会員として生残りの古つはものは御承知の通り小生唯一人と相成り申候間其記念とし将た晩年の事業としておぼろげながらも佐渡政党の経歴を書き残し置きたしとは平素抱く処の志望に有之候然れ共翻て考ふるに小生は老齢前途無覚束身の上に候間万一今にしても西方浄土へ旅立ち致し候時は佐渡政界一部の実状を知る能はざるに至るべくと存候間己の分限も顧みざる大胆の企てには候へ共此際百尺竿頭一歩を進めて佐渡政党史を編纂せばやとの大野望を抱くに立至り候事は自分ながらも実に笑止千万と存じ候次第に有之候へ共是れ亦最も緊要の事と存じ候申上ぐるまでも無之斯くの如き大事業は到底小生輩の微力如何ぞ能く之れを成し遂げ得べき貴下を始め郡内識者各位の御同情と御援助を希ふの外無之と存候間左記各項により政党座談会を相開き御指導御願申上度と存候就ては時節柄御多忙と申し且つ御遠路の処甚だ恐縮の至りに御座候へ共当日は万障御差繰り御出席被下御援助を賜はり且つ御高見拝聴致させ被下度伏て御願申上候幸ひ小生の目的達成致し候様に相成り候へば幾分佐渡の文化を裨益する事にも相成り可申のみならず余命なき小生の美はしき晩年の花とも相成り候事に有之候間何卒右御含みの上御同情賜はらんことを懇願の至りに不堪候 草々拝具
政党座談会一、会日 十月二十日(第三日曜日)午前九時―午後四時
一、会場 河原田尋常高等小学校
一、粗飯差上申度準備の都合も有之申候間御出席の有無は十月十五日迄に御通知被下度候
一、御通知申上ざる方にても御出席下さる方有之候はゞ御誘引被下度準備の都合有之候間是
れ亦御通知被下度候
一、会費は一切小生負担に御座候
以上 昭和十五年十月八日
様猶々自動車会社パス往復二枚同封し候間御使用被下度若し御欠席に候はゞ乍御手数御返送被下度候
(齋藤長三「昭和十三年以後履歴書」第五巻)
齋藤は老躯を駆って佐渡政党史編纂用務のために、同年十一月十七日から二十三日まで新潟市・西蒲原郡へ、さらに翌十六年一月十四日から二月一日まで東京・新潟市へ渡り調査・研究を行った。
新潟市では野澤卯市・児玉龍太郎・本間長治などに会い協力を要請した。長三はその後も再三齋藤長三
再四渡新・上京して用務をこなしたが、体力・経済力は限界にあったようで「在京中報知診療所ニテ受診セシニ血圧二百、小便ニ少々蛋白質アレトモ老人ノ事ナレバ当然ナリ」と判断して佐渡政党史編纂に奔走した。十六年四月、佐渡政党史編纂計画案を公表して、趣旨・後援会員氏名・後援会規定を明らかにした。概要は以下のとおりである。
(趣旨)「思ふに政党の社会国家に対して産業の開発或は文化の進展等に貢献さることの多大なりしは敢えて言を要せざる処に有之候へ共我が佐渡に於ては未だ曾て之れを表明せる著述を見ず故に若し夫れ佐渡の政党の老残者たる予輩にして筆を執らず此儘に推移せんか凡そ佐渡の憲政発達の前半は後遂に之を知るを得ざるに至らんことは蓋し必然の事にして洵に嘆くべく悲しむべきことヽ存候」「菲才不文を顧みず野澤長老の御援助を請ひ僭越にも佐渡に於ける政党発達の経緯を叙述して以て佐渡政党史と名付け世に公にすると共に既に物故せられたる先輩諸氏の履歴と写真とを掲げて其功績を永遠に伝へんとする次第に有之候」(後援会)編纂主任齋藤長三会 計本間長治
(後援者)陸軍中将 本間雅晴
編纂補助中山直治 編纂補助児玉龍太郎会 計高橋幸吉 顧 問野澤卯市
元台湾総督 中川健蔵 衆議院議員 牧野賎男元外務大臣有田八郎衆議院議員北昤吉
(佐渡に於ける後援者) [205名氏名省略](規定)
一、本事業を御賛成下さる方は御一名金十円以上を御出資せられたし
一、御出資せられし方は後援会員として会員名簿に登録す
一、本事業は昭和十六年十二月迄に完成せしむるものとす (齋藤長三前掲履歴書)
齋藤長三の発した上記の文書によれば、一応は佐渡関係者を網羅した編纂体制にみえるものの、実態は齋藤単独の事業であった。大御所である野澤卯市を始め佐渡民政党関係者の協力体制が十分でなく、最晩年の齋藤には極めて重い仕事となつた。また齋藤の編纂姿勢に政友会偏重の色彩が濃厚にみられるとの批判もあり、齋藤が気張るほどには彼への支援は広がらなかった。
昭和十九年十二月二十九日、『佐渡政党史』の完成をみないで、齋藤は没した。齋藤の残した編纂物は「佐渡政党史稿」として、若干部が謄写判刷りで刊行された。
なお、佐渡政党史編纂をめぐる野澤卯市との確執については、野澤卯市「齋藤長三氏編佐渡政党史稿批正の弁」、齋藤長三「佐渡政党史編纂に付野澤卯市氏と分離の止むなきに至りたる経緯大要」(本書に所収)を参照されたい。

北昤吉の大政翼賛会批判北昤吉は、政党解散後の昭和十五年十月十二日、近衛文麿が総裁となり発会した大政翼賛会を批判し苦難の道を選択した。この頃、世論は「バスに乗り遅れるな」とばかりに、軍部に操られる近衛新体制に熱狂的支持を与えたが、昤吉は自らが主宰する雑誌「祖国」で鋭い大政翼賛会批判を展開した(「祖国」昭和十五年九月号「新体制の根本理念を検討す」、「祖国」昭和十五年十一月号「大政翼賛会の性格に対する疑念」『排撃の歴史』所収[昭和十六年九月刊行])。以下に概要を紹介しておこう。

(1)久しく国民総力の新体制を考案しつつあった近衛公は首相の印綬を帯びるや、遂に国民組織の新体制に就いて歴史的意義ある声明を発した。その声明を閲読すれば、我々が曩に危惧していたよりは上出来ではあるが、皇道政治の近代的適用といはんよりは、ドイツ的全体主義を如何に我が国体に順応せしめんかの苦心の産物といふべき節あるを悲しまざるを得ない。
(2)近衛声明は更に進んでいふ「かかる新体制に含まるものとしては、先づ統帥と国務との調和、政府内部の統合及び能率の強化、議会翼賛体制の確立等が挙げられねばならぬ、しかしながら、更に重大なるは之等の基底をなす万民翼賛の所謂国民組織の確立にあって、ここに準備会を招請し、協議協力を求めんとするのも、正にこの問題についてである」と。近衛声明中のこの文句は凡庸の徒は黙過し当然視するかも知れないが、具眼の士は到底その儘に黙過し得ざるべく、声明の再検討を要求せざるを得ない。即ち「総帥と国務との調和」は天皇として、又大元帥としての上御一人に於てのみ求むべきに拘わらず、「かゝる体制に含まるゝものとして」政府内部の統合や議会翼賛体制の確立と同列に置ける点は、我が国体の根本義と憲法の精神とに照して、果して妥当なる構想であり、適切なる表現であるといひ得るであろうか。上御一人主義が徹底してゐない。日本に於ては上御一人の大権であって、始めて総帥権の確立があり、万民翼賛の国民組織があるものであって、陛下の大権は論理的に国民組織に先行すべき筈のものである。
(3)公の考えを深く検討すると重大なる危険が伏在している。それは外でもない。一億同胞をして大政翼賛の臣道を完ふせしめるといふ日本主義的、皇道主義的政治の原理を示すと共に、個人と国家との関係、又は個人と天皇との関係のみを眼中に置いて、個人が家庭を通じて君国に報ずるといふ家族主義の重要性を全然無視していることである。之を要するに、新体制論者がドイツの電撃戦の成功に眩惑され、全体主義に盲目的に心酔し、唯ドイツ模倣なりと攻撃されることを恐れて、強いてドイツの全体主義と日本の皇道主義との相違を説いて、自分等のドイツ追随をカマフラージせんとすることを実証するものである。
(4)政府は具体的な何事も国民に告げずして、国民に非常時局への心構へを勧めている。而も不明な原因に依って内閣が幾度か交代する。国民の政治的関心は焦燥感ともなり、不安ともなっている。訴ふべき政党は解消し、代議士は無力化して居る。旧体制は急速に亡びつつあるが、新体制は未だ処士横議の域を脱せず、国民は五里霧中である。近衛公は国家的関心を持てと激励するのも悪くない。しかし、現代の国民、特に青年に必要なのは、勤労と協同の精神及び実践である。田も耕さず、炭も焼かず、魚取もやらず、天下国家を論ずる政治狂の輩出が、青壮年の政治浪人の輩出が、果たして現代に必要であるか。集まり来った者は多くは生産に関係ない政治狂である。
(5)弱き人格に盛られたる高邁なる理想はその人を悲劇化する。旧体制を揚棄して、時勢に即応する新体制の必要を認めるに於ても、近衛新体制につき纏う欠点、特に国体上、憲法上疑念ある点につきては、十二分に議論を尽さなければならぬ。否を否とすることは大政翼賛の臣節をつくす上に於て第一義的要件になるからである。
(6)近衛公が大政翼賛運動の総大将だといふことになると問題が生ずる。大政翼賛運動の分子といへば、出生以後の日本人全体であるから、上御一人に仕へまつる××(伏字)を始め奉り、現役軍人も、裁判官も、総理始め各大臣も、政党員も、商人も、百姓も、漁夫も、老若男女、貴賤貧富、凡てが含まれることになり、従って大政翼賛運動の一分子たる総理大臣がこの運動の会長となり全国民を率ひて衆議統裁の形式を以て上御一人に奉仕することは果して妥当であるか。一億一心の大政翼賛は皇運扶翼運動であり、その標的たり対象たるものは上御一人のマツリゴトであり、内閣又は政府の行政ではない。従って大政翼賛は内閣翼賛とは本質的に異なって居る。
(7)余は以上数々の疑問の外にも幾多の疑問を持つが、ドイツの電撃的作戦の成功に依って側杖を喰って、頭脳に変調を生じなければ外来全体主義、直訳否誤解主義の主張と論拠とは容易に理解し難い。余は高度国防体制完遂の為めに、我が国に幾多現状打開に依る革新を為すべきことがあるを信ずる一人であるが、我が国体を忘れ、他国の一時的成功に眼眩み、事大主義的時局便乗者流の暴論に対しては深刻なる疑問を有する者である。

昤吉の大政翼賛会批判は、大政翼賛会が日本の国体に合致しない組織であること、ドイツ・ナチスの一時的成功に眩惑された急造的組織であることなど翼賛体制がもつ根本的矛盾を衝いたものであった。既成政党の無力を非難して脱党したが、大政翼賛会のような一国一党を目指す組織には断固反対したのであった。
この結果として、北昤吉は第七十七臨時議会直前の昭和十六年十一月十日、近衛新体制に批判的であった議員と衆議院院内会派同交会の結成に加わった。同交会は、衆議院での政府協力の翼賛議員連盟に参加しなかった鳩山一郎・川崎克・安藤正純・植原悦二郎・北昤吉・片山哲等三十七名で結成した会派であった。同交会所属代議士は、翌十七年四月執行の第二十一回総選挙(いわゆる翼賛選挙)では非推薦候補として立候補したが、激しい選挙干渉を受けた結果、当選者は鳩山一郎・芦田均・川崎克・北昤吉等九人のみであった。
同交会は同年五月二十日、翼賛議員同盟を解散して結成された翼賛政治会に吸収されたが、北昤吉は参加を拒んで信念を貫いた。
5おわりに北昤吉と齋藤長三は佐渡出身という共通点以外には、正反対の人生を歩んだ。齋藤は河原田尋常小学校卒業後、家業を継ぎながら政治運動に加わり自由党―憲政党―政友会の佐渡支部の実力者として、自由党系の地方政客を頑固に通した人物であった。

北は早稲田大学で哲学を修め、新進哲学者として欧米留学を果たし、評論家として評論雑誌「祖国」を主宰し、さらに共鳴者を「祖国会」に結集し、また帝國美術学校を経営するなど東京で八面六臂の活躍をした人物であり、加えて衆議院議員として待望の政界入りを実現して、「四足の草鞋」を履いて驚異的足跡を残した。
このような対極にある人物が交流を持つようになったのは、昤吉が昭和十一年二月の総選挙で佐渡を最大の地盤として立候補した時であった。昤吉より約二十歳年長の長三は、政友会の大物で晩年期を迎えた落日の政治家山本悌二郎の晩節を飾るべく当選を期し、昤吉の出馬を阻止しようとして秘策を尽くした。北昤吉の家系は父の慶太郎、叔父の本間一松など親類縁者が政友会系であったが、老練の長三はこの係累を前面に出して出馬断念を迫ったのであった。

昭和三年、五年、七年の総選挙で、新潟県第一区からの出馬を断念した昤吉は、十一年の選挙で民政党の野澤卯市の支援を受けて民政党系中立で断固立候補して当選、既成政党の無力・腐敗を非難して新党結成運動に参加したが奏功せず、暫時民政党に所属して議員活動を行った。この時にも長三は、昤吉に佐渡一国一党の新党結成を慫慂して揺さぶりをかけるなど、端倪すべからざる古豪振りを示した。
政党解散後、最晩年を迎えた長三は佐渡政党史の編纂を企てて老躯を駆って東奔西走したが、民政党派の協力を得られず完成できなかった。長三は当初に相談した昤吉から受けた積極的な刊行賛助の協力が、後に一転した事を怒り、私文書に僅かに恨み事を書き綴っている。
長三が佐渡政党史に関する周囲の冷たい反応に絶望しながら、その長かった政治活動と生涯を終えた時、昤吉は自由主義的保守政治家、鳩山一郎と行動を共にし、太平洋戦争期の厳しく辛い時期に反政府の立場を堅持して反骨政治家の信念を貫き通したのであった。そして戦後も、日本国憲法制定に畢生の努力を傾注したのである。
両者に共通する頑固一徹さは佐渡人が共有する資質であった。その資質は昤吉の兄一輝にも、山本悌二郎・有田八郎兄弟、本間雅晴、青野季吉、土田麦僊・土田杏村兄弟にもあった。また佐渡を支えた幾多の有名無名の群像にもあったのである。その頑固一徹さの化身のひとつが齋藤長三の残した「佐渡政党史稿」ではなかろうか。(新潟県文化財保護審議会委員・新潟大学講師)
[本間恂一]

一輝と昤吉 北兄弟の相剋 稲辺小二郎著出版:新潟日報事業社