連載 椹木野衣 美術と時評

美術はだれのもの?——北川フラム更迭問題をめぐって(前編)

2007年に在野から招かれ新潟市美術館の館長職にあった北川フラム氏が、09年の夏に報じられた展示作品へのカビ発生騒動に続き、今年になって発見された虫「約40匹」の責任を取るかたちで更迭されたのは記憶に新しい。むろん、収蔵作品に致命的なダメージを与えかねないカビや虫の発生が、館内で度重なってよいはずはない。新潟市美術館は新たに体制を整え直し、こうしたことが繰り返されないよう細心の注意を払い運営に臨むべきだ。けれども他方で、今回の出来事をきっかけに、素材の多様性も含め表現を拡張して来た現代美術にまつわる展示の可能性が必要以上に萎縮してしまうとしたら、それはまた別の不幸を招くことになる。

北川フラム氏の館長更迭に至る発端には、館内でのカビ発生を報じて美術館の管理責任を厳しく指摘する論調を押し出した毎日新聞(2009年7月31日付)の記事がある。そこで専門家の意見として取り上げられていたのが、美術評論家でもある本江邦夫氏(多摩美術大学教授、元府中市美術館長。同氏は「新潟市美術館を考える会」の会員でもある)による「水気のある作品を展示すること自体、常識では考えられない。特に土はカビや雑菌が付いて腐敗につながりかねない」とした発言だ。誤解を避けるために言っておけば、ここでの本江氏の発言は、同じ室内でピカソなどの絵画も展示していたというのであれば、至極真っ当なものである。けれども他方で、そこで「常識」とされているのが美術表現そのものの常識でないことには充分に留意しておく必要がある。なんとなれば、「土や水気のある作品を展示すること」は、先端的な現代美術の表現史においては非常識であるどころか、ほとんど常識にたぐいすることだからである(ウォルター・デ・マリア、リチャード・ロング、アントニー・ゴームリー等々)。それに、美術館の使命のひとつが作品の保存にあるのだとしても、新しい美術の可能性を広く市民に知らしめることも、近代以後の美術館に欠かせぬ存在意義だろう。土や水(字義通りに取れば、古材や廃品を扱う表現も問題視しなければならなくなってしまう)を美術館から閉め出し、過去作品の保守管理を潔癖主義的に強化するだけでは、日本の美術館での表現は不自由になるばかりだ(事実、今回の一件以後、これまで現代美術に積極的であった2、3の公立美術館や、元来は収蔵とは関係のないオルタナティヴ・スペースでも、土を使った展示に慎重となる向きが出ていると聞く)。近代以後の美術と美術館をめぐるこうした二律背反をポジティヴに解決するためには、今回の事例を一騒動として見るだけではなく、これを機に日本での美術の在り方をめぐり、より根源的な思考の組み替えを試みなければならない。そもそも、日本の近代において美術にはどのような社会的意義が期待されていたのだろうか。今回と次回の2回にわたり歴史を遡って考えてみたい。
 
日本の近代は明治期に文明開化の名のもと、富国強兵・殖産興業をスローガンに立ち上がった。実際、美術行政もその例外ではない。西洋図画は当初、表現というよりも透視図法や陰影法にもとづく客観的知識の伝授という理系の技法として工部美術学校他に導入されている。それが軍事や通信・記録などの富国強兵に役立つと考えられたからだ。いきおい、旧幕藩によって保護された狩野派を始めとする伝統美術は趣味的で何ら国益に与せぬものとして排除された。それどころか、欧化主義の徹底は伝統美術を破壊する廃仏毀釈の嵐すら巻き起こしたのだ。この大方針が修正されたのは、岩倉具視を正使とし、伊藤博文、大久保利通、木戸孝允ら新政府のコアメンバーが参加した海外使節団(1871 - 73年)の視察に端を発する。彼らは欧米列強の心臓部にあるのは単なる技術革新ではなくナショナリズムの心性であることを痛感し、帰国後、富国強兵・殖産興業と国粋主義を統合するシステムとして万国博覧会の自国開催をめざすようになった。その視察の最中に開かれたウィーン博への日本政府による初の公式参加(1873年)をきっかけに「美術」という言葉が生まれ、そこで好評を博したのが折からのジャポニスムの波に乗る伝統技芸だったこともあり、その後、国内で博覧会を模した最初の試みである第1回内国勧業博覧会(1877年)の流れを汲んで開かれた官営の絵画展である第1回内国絵画共進会(1882年)では、絵画の主流は一転、日本画へと絞り込まれることになる。ちなみにこの絵画展を主宰したのは文部省ではなく当時の農商務省で、言ってみれば現在の経済産業省と農林水産省を併せたような省庁だった。つまりこの時点では、日本の近代美術をめぐる行政は明確に貿易的、物産的視点を備えていたことになる。欧米列強に対する伝統美術や日本画の優位というのは、つまりはそういうことだった。この頃の政府による公式の美術観には、作品の保存や教育普及ということを超えて、広く興業や観光の財としてそれを活用することも含まれていたのである(たとえば村上隆の近年のプロジェクト「GEISAI」などは、「日本画」の原風景を手懸りに遠くこの系譜をたどるものと言えるだろう)。
 
ところが、このところの独立行政法人改革等で相当に趣が変わって来たとはいえ、日本の美術館は長く、市民サービスや娯楽といった産業的側面に乏しいと批判されて来た。また美術関係者のあいだでも、そうした「余業」は美術の本筋にあらずと疎んじる気持ちがあったのも事実だろう。いったい、どこでボタンの掛け違えが起こってしまったのだろう? 注意しなければならないのは、近代化の故郷であるヨーロッパでは、すでに17世紀以来、美術が国家の統制を離れて流通するのは市民社会の成熟の証であり、レンブラントやフェルメールの絵もそうしたなかでこそ結実したということだ。そして、それらを収集する近代以後の美術館には、おおまかに言って旧時代からの3つの革新が含まれている。ひとつは市民社会による(民主主義的な)運営ということ、第2に産業革命以来の技術革新(たとえばカビや虫が発生しない温湿管理などもここに入るだろう)が盛り込まれていること、最後に、健全な市場原理が反映されていること、である。展示も収集もサービスも、すべてはこうした大原則のうえに成り立つものであって、それらを抜きに作品の保全を言っても、あるいは教育普及を目指しても、そもそも何のための保全であり啓蒙であるのかが不明のままだ。はたして、日本の美術館は近代をめぐるこの3つの要件を満たして来たと言えるだろうか? 
 
こうしたことを考えるうえで、日本では1907年に文展(文部省美術展覧会)が始まり、美術を管轄する省庁が先の興業的な博覧会まわりから文化を「権威」とみなす文部省へと大きく舵を切ったことの持つ意味は大きい。

教育、文化、学術を排他的に自立させぬことには成立しない省庁的な行政区分では、ひとたびこの領域を文部省が所轄するようになれば、文化をめぐる為政から市場原理や産業的奨励が排除されるのは当然のことだろう。むずかしいのは、市場原理や産業指数に代わって文化がおのれの価値を自己決定する場合、結局その根拠は「権威」にしかないということだ。ゆえに文展(文部省美術展覧会)以後の美術行政では、そこに関わる者は自身の正当性を担保するために、みずからが権威であることを絶え間なく装わなければならない(=「この作品が権威を持ちうるのは、それを素晴らしいと言う私が権威だからだ」というふうに)。ちなみにアレクサンドル・コジェーヴの指摘にもある通り、立法的な権力と権威とは明確に異なる。前者は、その現実への直接的な関与ゆえに熾烈な権力闘争を経るから、利害という第三者をまじえた生々しい競争原理が働くけれども、権威はむしろ闘争というよりも二者間の承認にかかわるゆえ、権力的な発言を極力控え、ただ権威的に振る舞う(=要は威張る)ことだけでも充分に蓄積される。つまり、主人と奴隷との関係にもとづく承認をめぐる儀礼性は法権力の源泉ではあっても、その矛盾は止揚されて一般化しないかぎり社会化されることはない。文展は、国家によるこの承認の非社会的な儀礼性にのっとるかたちで、解決の糸口がなかった日本画と洋画とのあいだの団体的な権力闘争を、国家という承認機関に褒賞制度を置くことで調停し、そのことでおのれの「権威」を逆立的に生み出したのだ。このことは、現在に至るまで文部科学省や文化庁といった文化をめぐる国家機関が、審査・褒賞という儀礼的行為に執着する根拠なき権威の性質をよく物語っている。主張や論旨にもとづく討論ではなく、単に特権者の椅子に座ることをめぐる承認の手続きだけが、その者の正統性を保証するのだ。これでは近代主義の三原則(民主主義、技術革新、市場経済)どころか、たんに前近代的な封建制の残滓でしかない。
 
であれば、もう一度近代の帳に立ち戻り、文展以後の権威主義とは異なるかたちで、わが国の近代化にふさわしい美術とは何かを、もっと多様に考え直してもよい時期なのではないか。たとえば、わが国における近代美術の「権威」であるはずの東京国立近代美術館の常設展示も、その第1章を「文展開設前後」とし、近代美術といっても文展開設となった明治40年を基準に日本の近代美術を語り始めている。そこで消されているのは、日本の近代美術をめぐる黎明期での殖産興業的な技術革新ならびに博覧会的な観光物産・貿易主義の側面だ。そしてこの消去には、当初は博覧会行政を担っていながら、岩倉具視らとともに海外視察から帰朝し、みずから内務卿の地位にあった大久保利通により、「殖産興業に関する建議」が提出され、その主導権が「勧業博」という命名とともに内務省へと移されてしまったことに対する遠い怨讐劇が木霊(こだま)しているかのようだ。

これらを下敷きに考えれば、あるインタビューで北川フラム氏自身が語っているように(このことをわたしはブログ「東京藝術史」で知った)「いままでぼくが戦略的にやってきたことというのは、要するに文部科学省ルートではなく、国土交通省ルートで美術市場を開拓することだった」という北川氏による発言の真意は−−−「東京藝術史」のなかでも「国土交通省ルートというのは、端的に言えば『観光』という意味だろう」と指摘されているとおり−−−文展以来の儀礼的な美術行政に特化するのではなく、その外部に広がる観光やビジネスといった「新しい殖産興業」との連携を見据えた観点から、野山や河川、海浜を管轄する国土交通省や農林水産省、そしてその名の通りの経済産業省にまで及ぶ多様な省庁の守備範囲へと拡張して初めて可能であるような、新時代の美術行政が考えられてもよいのでは、ということだろう。地方分権や情報公開、真の民主主義が唱えられる昨今の情勢にあっては、それは特に無謀な発想ということにはならないはずだ。とりわけ機会の多様性や表現の拡大を原動力に展開して来た現代美術のような領域にあっては、発表の場所として今後ますます、公立の美術館という文展的な文化装置の外に広がる山、川、海、農地といった国土、あるいはビジネスの場としての博覧会(フェア)が重視されるようになるのはある意味、自然なことである。

こうして考えてみたとき、近代=文展以後の美術をどう捉え直すのかという、より大きな課題こそが、われわれに与えられた大きな射程として浮かび上がってくる。そして、そのなかで北川フラム氏がかねてより『大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ』を通じて実践し、今年の夏には瀬戸内の島々を連携して観光と結びながらディレクションしようとしている試み(『瀬戸内国際芸術祭2010』)は、わたしたちの美術が今後に向かうべき方向を指す試案としても、大きな展望と有効性を持つように思われる(ちなみに同芸術祭の後援省庁は、総務省、経済産業省、国土交通省、観光庁)。前回の冒頭で触れた館長更迭に至る一件が、そのような殖産興業的=旧内務省的な美術のあり方を、文展以来の美術行政の拠点であった美術館にいささか性急に持ち込んでしまったことに起因するのだとしても、それはそれで試行錯誤を経て軌道修正をしていけばよいことだろう(むしろ、その後の毎日新聞での報道にあった通り、新潟市美術館をめぐる一件では、北川体制から遡る1985年の開館当初からの作品の収蔵・貸借にまつわる不透明な問題が第三者委員会によって指摘されている)。

が、前篇の冒頭で記したことを繰り返しておけば、ある意味それ以上にわたしが危惧するのは、元来は美術館による運営管理上の問題が、「水と土」という北川氏が設定したテーマ自体に由来する問題へと過度に引き寄せられ、そのことで美術をめぐる新しい可能性や、それを追求している作家に重圧が掛かってしまうような事態である。そもそも、米国では1960年代末にロバート・スミッソンが登場して以来、美術表現は、長く後世に保存されることを至上の価値とするだけでなく、美術館の外で進んで時の経過にさらされ、原型を留めず崩れ行くことも受け入れて来た。が、しばしば誤解されているが、欧米でランドアート、アースワークの登場がもたらしたのは、単に屋外で大地を素材にスケールの大きな作品をつくるということには留まらない。屋外では作品が一時的にしかもたないからこそ、そこで「記録」が二次資料以上の意味を持ち、館内に物として収蔵し保存・管理されるのとは別のかたちの新しい試みや、作品の恒久性という概念の問い直しに照明が当てられたのだ。同時にスミッソンは、美術館に本物の砂や岩を持ち込みながら、写真や地図を通じて、それらの素材を美術館(=ノン・サイト)の外部(=サイト)と呼応させ、そのことで美術館の内外をも相対化してみせた。だからこそ、今回の一件が一部の「権威」によって過度に訓示的に機能して、日本の現代美術をめぐる展示環境がロバート・スミッソン以前の「常識」に引き戻されるようなことがあれば「日本のアートは10年おくれている」どころか、明治に遡る省庁間抗争という傷跡を残したまま、悠に40年は時を逆行してしまいかねない。

主な参考文献
アレクサンドル・コジェーヴ『権力の概念』(今村真介訳、法政大学出版局)
國雄行『博覧会と明治の日本』(吉川弘文館)
若林直樹『退屈な美術史をやめるための長い長い人類の歴史』(河出書房新社)