「子の権現御縁起」

往昔、紀伊国天野のさとに阿字長者と申人おはしましける。 一生負寡のおすまゐにて、御年六十におよばせ給ふまで、御子とてももたせ給はざりける。 然るにある夜、一人の菩薩きたらせ給ひて、御まくらにたちそひおほせられけるは、われ救世利益の請願あり、ねがわくは、しばし胎内をかり参らせて、出生せばやとおもひまいらするは、いかにと宣ひければ、長者聞しめされ、夢のうちにもいと有りがたく思ひ参らせて、みづからい賤しき凡夫の身なれば、いかでかゝ るたふとき仏ぼさつの宿らせ給ふべきと辞し申させ給へば、なにかくるしかるべき、みなこれ前世のやくそくにこそ侍れと、おほせられけるとおぼしめされければ、御ゆめはさめけり。
それより長者幾ほどもなく、御懐妊の御こゝちいできさせ給へば、老後の御思ひでにおぼしめされ、よきに御身いたはらせ給ひける。 月日すでにかさなり参らせて、胎内十二月と申、淳和天皇天長九年壬子の年子の月子の日子の刻に、やすやすと男子御誕生ありけることめでたけれ。 時に紫雲御産所におほひ、いきやうきんじ、華ふり、音楽のこゑ聞こえて、諸天諸菩薩やうがふいにやうしたまふ。 また雲中にこゑありて、今宵誕生し給ふ御子はかならず御出家なし参らすべしと御告げありけるこそ有りがたくもふしぎなりけれ。
既にとりあげ参らせ、御うぶ湯など参らせ、お乳めのとあまたつけ参らせ、いつきかしぎ、もりそだてさせてまふ。 かならず御出家なし参らすべき御子なればとて、御名を救世若どのとまをし奉りける。 つひに御年七歳と申にあまのゝ御寺にのぼせ参らせ、御かざりおろさせ給ひて、御出家なし参らせける。 時の人賞し参らせて、天野の聖と申たてまつり、また子の年の日に生まれさせ給へばとて、子の聖とも申したてまつりける。 御才覚なども世にこえさせ給ひて、たぐひなき御碩学とならせたまふ。 まことにしるもしらぬも、うやまひたてまつらぬはなかりけり。
或とき聖御こゝろにおぼしめされけるは、それわが朝は、はづかに六十余州なり、その周辺かぎりあり。 唐土天竺へゆて道だにもおもひ立ちぬれば、しかじ、いざ国々をあんぎやしみばやと思しめされ、ひそかに天野の御寺を出させ給ひて、雷地霊山のこりなく尋ねめぐらせ給ふ。 また能除の御あとをしたはせ給ひて、出羽の国に下らせ給ひて年月を送り給ふ。 されば満山の人々もかゝる貴き聖にそまたおはしまさね、およそ能除と申奉りても、いかでかかはらせ給ふべきと、かしづきうやまひたてまつらぬはなかりける。 かくて聖、年月を送らせ給ふる。 あるとき月山がみねによぢのぼらせ給ひ、とし頃誦持させたまふ般若御経をもたせ給ひて、南無御経もわがながく跡をたれて住むべき山にとゞまらせ給ひと、またわれを迎えさせたまへとて、虚空になげさせ給へば、此御経はるかの南にとばせ給ひて、武蔵の国秩父の郡あが野の里今の経の峰におちとゞまらせ給ひて、金色をはなち光明かくやくとして虚空をはるかに照し給へば、聖この光をとめさせ給ひて、ちゝぶの郡あが野の里へはるばるとたづねいらせ給ひ、麓の山そばにしばしやすらはせ給ひける。
かゝる所にこの山にすみける山鬼波旬ども、あつまり評定しけるは、此聖をわが山にいれ参らせなば、つひには我らはおひ出され参らすべし。 しからば今かくふかく寝いらせ給ふ所に、火を放ちやきころし参らせんにはと、おのおの猛火をふきかけゝれば、山野たちまち火坑となり、火すでに御ころものすそにもへつきたてまつりければ、聖うち驚かせ給ひてあたりを御覧じけるに、煙火しきりにもえかゝり、のがれさせ給ふべきかたもおはしまさねば、御いのちを今を限りとおぼしめされ、しばし御目をふさぎ念彼観音力火坑変成池と一心にねんじさせ給へば、かゝる御念力やつうじさせ給ひてけん、爰に宝珠洞にます十一面観世音菩薩は、忽天龍と変じさせ給ひて、雨をふらし水をそゝぎ、猛火をふせがせ給ふ。 また御手に持たせ給ふ御鉾をなげさせ給へば、千のほこ千の矢となり、すき間なくとびかゝりければ、山鬼波旬もみな鉾につらぬかれてうせければ、今は子細なしとて龍は天にあがり給ふ。 聖稀有の御事に思し召され、空をはるかに見おくらせ給へば、十一面観世音菩薩端然として雲中に現じさせ給ひて、宝珠洞にかへりいらせ給ふを見参らせ、かんるい御きもにめいじ御あとを遥にふしおがませたまふ。 このとき御あしと御腰とを焼そんじ給ひければ、しばしその所にていたはらせ給ふ、下河日寺と申はこれなり。 また、龍一つのうろこをおとしおきける、今の龍鱗石と申は是なり。 またその時の水したゝり残りて、ちかひたえせぬあまの瀧津瀬と申はこれなり。 其後峰によぢのぼらせ給ひて、御経を見させ給へば、光明かくやくとして辺りを照らしたまふ。 聖いと有がたくおぼしめされ、またながくわが山を守らせ給へとて、すなわち石の御箱におさめさせ給ひて、その峰にこめおかれ給ひける、今の経のみ年と申はこれなり。 また御庵室を結ばせ給はゞやとおぼしめされければ、いづくともなく異人おのおの率いて、手に々々材木をとり、巧匠にものして御寺たちまちに成就し給ふ、則山を大鱗山とよび、寺を天龍寺と名付させ給ふ。 これながく天龍の御加護をわすれさせ給ふまじきとの御事なり。 おなじく御母堂阿字不生院をたてさせ給ふ、本地大日如来にてぞおはしましける。 また今の末社住吉、すは、あたご、妙見、摩利支天、山の神とあらはれ給ふは、皆その異人にてぞおはしましける。
其のち草木もしげりぬればとて、大林山と申なり。 此御山にて、聖一百八十歳の星霜をおくらせ給ひける。 あるとき、ふもとの里人におほせられけるは、われすでに化縁つきぬれば寂光の本土に帰るべし、しかあれど、われむかし火のために腰と足とをいたつきぬれば、長く後の衆生をして、我ちかひてあしこしおよび一切の火難をのがれしむべしと、御誓願あそばし給ひて、長和元年壬子の三月十日に昇天し給ふ。 在所のものどもこれを見参らせ、さすが御名残をゝしみ奉り、則其所を鎮座と定め御社をたてまゐらせ、子権現とあがめたてまつりける。 本地釈迦牟尼仏にておはしましける。 衆生利益の御ためにかりに出生し給ふぞ、かへすがえすも有がたけれ。 また天龍十一面観世音菩薩も、おなじく観自在道天とあらはれ、御庫ヶ嶽にあとをたれたまふ。 これすなわち権現をねんじ参らするともがらを守り給はんとの御ちかひなりける。

右縁起の文誰が撰述なることをしらず、すなわち大鱗山天龍寺に往昔より相伝せる宝物なり。然に安政五年戊午の春回録のとき、此縁起も消失せり。同年六月己未の冬、三州鳳来寺不動院円潭法印此一巻を新装し、天龍寺におさめ給わんとて、予が染筆を請い給いける。もとより拙毫汗顔のことなめれど、夙縁のかヽる處あればや、いなみがたくてかくなむ。
萬延紀元庚申春閏三月十日  一実神道後学正三位祝部宿禰希烈書時年七十有六