平井呈一

ディオダーティ館でメアリと親交を深めた医師ポリドリも、かつてエディンバラで生体電気の研究に従事していたことがあり、メアリの重要な情報源と考えられる。
また夫パーシー・シェリーは、イートン校時代からこの理論に夢中になっていたし、1820年に書いた『鎖を解かれたプロメテウス』では、電気を愛と光と生命の原理として描き、ほとばしる生命の火花として電気を説明している。

ダーウィンを含む当時のヨーロッパの発生学は個体発生のメカニズムに観念連合が干渉するという、考え方を持ち込んでいる。
すなわち、受胎の瞬間の両親の精神状態が子どもの性格に多大な影響を及ぼすという考えである。
簡単に言えば、病んだ思考にとらわれたまま子作りをすると、心身が病んだ子供が生まれると信じられていたのである。

有名な例は、ローレンス・スターンの『トリストラム・シャンディ』である。研究に没頭するフランケンシュタインの心身はむしばまれ、微熱、苦痛、神経過敏にさいなまれ、きわめて不健康な状態にあった。そのような状況で作られた怪物は、「均整のとれた四肢」と「美しく選んだ容姿」(p.74)のはずだったのに、完成してみると見るもおぞましい姿となり、フランケンシュタインは家を飛び出し、町をさまようことになる。

ジュスティーヌという名前は、サドの小説の主人公から取られている。無神論者サドは、二大小説『ジュリエット、あるいは悪徳の栄え』と『ジュスティーヌ、あるいは美徳の不幸』において、悪徳に身を任せる者には繁栄が、美徳を守ろうとする者には不幸が訪れるという主張を展開した。姉のジュリエットは女の武器を利用して、娼婦や愛人として人生を勝ち上がり、莫大な富を手にするのに対して、妹のジュスティーヌは、美徳や礼節を守ろうとして逆に恥辱や辛酸にまみれ、ついには窃盗や殺人の罪を着せられて処刑されてしまう。

12歳で召使いとしてフランケンシュタイン家にやってきてから、ジュスティーヌはヴィクターの「お気に入り」だった。まるで「アリオストがアンジェリカの美しさについてあげているのと同じ」とあるが、アリオストというのは、”Orlando furioso”を書いたルネッサンス期のイタリアの詩人で、アンジェリカとは主人公が恋をする12歳の少女の名前である。ジュスティーヌがメイドとしてやってきたのと同じく12歳だ。名前はアンジェリカだが、設定は東洋の王女ということになっており、東洋はキリスト教世界から見た「オリエンタリズム」のイメージによって、はばかることなく性愛の快楽を享受する場所とされる。アンジェリカは、下級兵士から貴族の面々まで、気に入れば誰とでも”frank-hearted and happy”に愛の交歓に励むので、主人公のオルランド(フランス語ではロラン)は嫉妬に狂い、「狂えるオルランド」となるのである。つまり、アンジェリカにたとえられることで、ジュスティーヌはエリザベスに対して抑圧されたヴィクターの性欲のはけ口という意味づけがなされてしまう。そのことを手紙に書くエリザベスは、もちろんその含意を知らないわけだが、小説の構成力学としては、婚約者の潜在的なセックスパートナーとして読者に紹介していることになる。これから結婚するにあたってなんとしても排除しなければならない存在である。もちろん、それは作品の奥底に沈殿した言外の含意であって、前面に立てて解釈すべき意味ではない。しかし、エリザベスに結実したピューリタニズム的な上流婦人というひな形が何の屈折も傷もなしに描かれるという事態は、身をもって性愛と家族に潜む深い闇を体験したメアリ・シェリーという作家においては考えにくい。

怪物の最初の犠牲者となるウィリアムについても、その名前には裏設定がある。メアリはシェリーとの不倫関係で2人の子どもを設けている。第1子はクララという女の子で、1805年に生まれて13日で死に、第2子がウィリアムである。バイロンなどとディオダーティ館に集っていた夏に乳児としてついてきていて、小説の初刊本が発刊された1818年の翌年、1819年にコレラで3歳の短い生涯を閉じている。

「死の最大の原因は誕生である」というアフォリズムがあるが、自身の誕生が母親の死の原因となったメアリにとって、この言葉は単なる警句以上の意味があったと考えられる。自分がシェリーと愛し合い、子どもを2人作ったところでシェリーの妻が自殺し、しかもそのおなかには別の男性との不倫でできた子どもが宿っていたということ。そして、その死によってメアリとシェリーの結婚、そして婚外子であったウィリアムが嫡子となることも可能となったということ。メアリにとって死と誕生(Death and Birth、なんだかエヴァみたい)は、つねに対となって結びついたものとして想起されていたに違いない。怪物に殺される最初の犠牲者の名前がウィリアムであるのは、単なる偶然ではない。

小説は、フランケンシュタインの物語には直接に関係しないウォルトン船長の手紙で始まる。小説の虚構世界の中に読者を招き入れるために、異世界への通路として、敷居として機能するために、冒頭部には工夫が凝らされなければならない。
 
作者は小説世界への通路として、作者はフランケンシュタインの信じがたい物語をわれわれに伝える存在を一枚かませることにした。それがウォルトン船長である。マーガレットに宛てた4通の書簡で、氷に閉ざされた北極海で怪物を追跡するうちに力尽きたフランケンシュタインを保護したいきさつを伝えている。

物語全体はウォルトンによって伝聞として物語られている。この媒介によって、読者の想像力は負荷を減じられ、非現実的な物語世界に違和感なく入り込めるようになる。

 ウォルトンとフランケンシュタインは、実に似た境遇にある。2人とも故郷を遠く離れ、家族の女性を遠くにおいて、男性特有の夢の実現に邁進する。ウォルトン自身の女性関係については、何も触れられない。ウォルトンは、その気になれば贅沢で安楽な暮らしもできたのに、それを捨てて「全人類の利益のために」あえて苦難の道を選んだということになっている。結婚して家族を持ち、子孫を残すという生き方を捨てて、あるいは延期して、女性の入り込めない領域に踏み込んでいる。
 ウォルトンは、極地へ到達し、さらにそこを経由する新航路の発見をもくろんでいる(P.20)。フランケンシュタインは、生命活動の原理を見つけ出し、それを人工的に再現することで死という限界を超越しようという野望を持っている。いずれも、理性の力を用いて自然の秘密をこじ開け、そこから利益をつかみ取ろうという、産業革命以後の啓蒙精神である。それは、性愛をはぐくみ家庭を作り子孫を育てようという、女性の欲望とは相容れない。


 こうした男性原理を体現する人物として、目立たないエピソードがもう一つ付け加わる。捕鯨船の船乗りで、ロシア人の若い娘と結婚する予定になっていた男の話だ。彼は船乗りをして貯めた金を持って、娘の父親に結婚の申し込みに行く。裕福な男を見て、父親に異存はない。しかし、娘には、貧しいがゆえに結婚を許されなかった恋人がいた。それを聞くと、男は財産のすべてをその恋人に渡し、父親のもとに行って二人の結婚を認めるように進言する。この気高い自己犠牲の精神に感動した父親が、なおさらに娘との結婚を求めると、この男は国外に姿を消したというのだ。
 恋は盲目といい、恋愛の狂気に導かれて人生を破壊する人々の物語が氾濫するロマン派の時代に、そうした衝動に背を向ける崇高な行為の価値を賞賛すること。これはもちろん、性愛によって堕落する理性を嫌うピューリタニズムの精神に合致したエピソードではあるが、同時に、性愛を拒絶する女嫌いの理性を支援することにもなる。これは新しい感性である。これについては、いずれまた詳説しよう。

 再び小説の冒頭に戻ろう。ウォルトンが北極海の氷上で出会ったフランケンシュタインである。彼は妹同然に育てられた婚約者を故郷に残したまま科学の実験に没頭し、ついにはその実験の成果として生まれたモンスターに恋人を殺されてしまう。エリザベスを殺したモンスターを追って、北海の氷原を犬ぞりで走るフランケンシュタイン。母胎と家庭という女性的な暖かみの対極にある極北の地で、男たちと男性原理のみによって産み出されたモンスターが邂逅する。物語の冒頭は、女性原理を拒絶した場所で始まる。

 女の愛を拒んでまでも男が没頭するもの、それは「創造的なもの」と名付けることができよう。クリエイティブな作業、それは神が世界を作った仕事を模倣して人間がものを作り出すという、動物と神の中間に位置する存在であるからこそ強迫的に突き進まざるをえない行為であり、その強迫性ゆえに破壊的な衝動でもある。
 氷上で力尽きそうになったところを助け出したフランケンシュタインに対してウォルトンは、自分の情熱――知識を手にし「人類の敵たる自然の諸力を支配する力をこの手におさめ、後代に残すこと」への執念をあきらかにする(P.36)。するとフランケンシュタインはうめき声をあげ、「わたしの狂気が、あなたにもとりついているのか」と、声もとぎれがちに呻き、自分の身の上話をはじめる。その身の上話から、「教訓を引き出してもらう」ために」(P.39)。
 ウォルトンは、フランケンシュタインと同じ轍を踏む直前で、同じ種類の人間から物語を聞く存在として、物語と読者とつなぐのである。

言葉を覚えた怪物は、森の中で書物が入った鞄を見つける。中には『失楽園』と『プルタルコス英雄伝』と『若きウェルテルの悩み』が入っていた。いずれもヨーロッパ文化史を知る上で非常に重要で有名な作品であるが、名前を聞いたことはあっても、21世紀の日本で、最後の1冊を除いては、読んだことがある人は少ないだろう。
『ウェルテル』は、昔はよく中学校の課題図書になったが、今はあえて読ませないかもしれない。『フランケンシュタイン』と同じく書簡体小説で、若い法律修習生が人妻に恋をして、最後はピストル自殺という、あらすじだけを言えばあまりにもアホらしい話と思われるかもしれない。しかし、この作品は、ロマン的恋愛、つまり小説のように織りなされる恋愛のひな形、その源泉の一つと考えられるとき、文化史的意義を持つ。怪物にとっても、これまで未知の領域にあった新たな感情を教えてくれる書物である。心の空虚を埋める恋愛という他者との絆をこの小説で知るわけだ。18世紀末から19世紀初期にかけてのヨーロッパの時代精神は、大まかにいえば「ロマン主義」と呼ぶことができる。ロマンとはドイツ語とフランス語で「長編小説」という意味である。これが活字文化の主軸となることによって、活字でつづられた世界が脳内であたかも実体験されるように受容される、すなわち、まるで脳内劇場の映画のように経験されるようになったのがこの時期のメディア革命による感性の変化である。この変化によって人間には、主体的に選ばれた決定として、自由意志による選択として、感情生活を生きることが宿命として課される。各人の世界を作る原理として万人に要請される主観や自由は、それこそが手に負えない怪物のようなもので、ウェルテルはこの怪物を制御することができずにピストル自殺をすることになった。また爆発的に流行したこの小説に刺激されて、ヨーロッパ中で、ウェルテルと同じ青いチョッキを着てピストル自殺する若者が出現したというのは、メディア革命につきものの精神的疫病のようなものかもしれない。社会心理学ではこれを「ウェルテル効果」と呼ぶらしい。
『プルタルコス英雄伝』は、帝政ローマ時代のギリシャ人プルタルコスが、古代ギリシャと古代ローマの英雄たちを対比させながら描いたもので、「対比列伝」と呼ばれる。ヴォルネーの歴史書と並んで、怪物はこれを読むことによって人間社会への深い洞察を学び、知識を身につける。その知識は、人間らしい策略を講じるときに役立てられる。
『失楽園』についてはすでに説明した。170ページで怪物が説明するように、この書物は創造主と被造物の関係を、フランケンシュタインと怪物の関係にスライドさせて考えるきっかけを与えている。最初は神が作った人間アダムを自分に重ね合わせたが、神の愛を受けるアダムと違い、忌み嫌われる自分はむしろ神に背いて戦うサタンであると怪物は考えた。サタンと同様に創造主に反乱を企てなければならない。さらに怪物は、フランケンシュタインの研究日誌をも発見する。死体を寄せ集めた自分の出自を知って怪物は創造主であるフランケンシュタインへの憎悪をさらにかき立てられる。『失楽園』の堕天使たち、サタンたちは、自分と同じく創造主から追放された身ではあるが、少なくとも仲間がいる。自分の不幸は、類としての孤独だということがますます実感される。
これは、よくありがちな「友だちがいないという悩み」どころの話ではない。類としての孤独は、たとえば世界中にゾンビやヴァンパイアがはびこり、親兄弟を含め周囲がすべてゾンビやヴァンパイアになって、最後の人間としてこの世界に残された状態と同じと考えてよい。(ちなみに『地球最後の男』という映画もある。)いや、それ以上だ。その場合は、かつては同類がいたという思い出は残っている。この怪物の場合、最初からずっと単体の孤独を耐えなければならなかったのであり、言葉を覚え、書物で人間の世界を知り、人間の感情を知ったとき、そこに参加できない自己の異質性を突きつけられたのである。
怪物は、この耐え難い異質性から逃れようと、これまでは観察の対象として、いわばテレビのホームドラマのように見ていた世界に入り込もうと決意する。もちろん、受け入れられるはずはなく、激しい拒絶にあい、怪物は自分の異質性、宿命としての孤独を再び思い知らされることになる。ここの叙述は実にうまい。目の見えない老人に話しかけ、視覚的異質性の障害を取り除いて、言葉によって心のつながりを求め、それが成功しかかったところでフェリックスたちが戻ってきて、視覚的異質性が克服しがたい障害として再び場を支配する。異質なものはいくら努力しても受け入れられないという冷酷な事実が突きつけられるわけだ。その場から逃げ去ってしばらくしたあと、怪物はショッキングな場面に遭遇する。フェリックスが小屋の貸し主の村人に、怪物が出るので退去すると語っているのである。これまで唯一の社会との接点であったホームドラマまでもが取り上げられて怪物は絶望し、小屋を焼き払ってフランケンシュタインに復習するためにジュネーブへ向かう。途中、おぼれかかった少女を救い出したら、逆に銃で撃たれるという、孤独の絶望をさらに強化するエピソードにも出会う。
ジュネーブに到着した怪物は、末の弟のウィリアムを殺し、その死体から"a portrait of a most lovely woman"を発見する。ヴィクターの母カロリーヌの肖像だ。英語で "Locket" ドイツ語やフランス語で "Medaillon" という、中に絵を入れて持ち運ぶ装身具だ。これを見て怪物は、" In spite of my malignity, it softened and attracted me. For a few moments I gazed with delight on her dark eyes, fringed by deep lashes, and her lovely lips; but presently my rage returned: I remembered that I was for ever deprived of the delights that such beautiful creatures could bestow." という。美にいやされ、美に魅了されるけれど、その美に与ることができない自分の異質性を再び思い出して怒りを新たにするのである。これと同じ感情が、偶然発見したジュスティーヌにおいても喚起される。怪物は眠っている彼女を見て、奇妙な行動に出る。
"A woman was sleeping on some straw; she was young: not indeed so beautiful as her whose portrait I held; but of an agreeable aspect, and blooming in the loveliness of youth and health. Here, I thought, is one of those whose joy-imparting smiles are bestowed on all but me. And then I bent over her, and whispered, `Awake, fairest, thy lover is near--he who would give his life but to obtain one look of affection from thine eyes: my beloved, awake!' "
眠っているので、盲目の老人と同じく視覚という障害がない。そのすきに、そのチャンスに、恋人とのふれあいを妄想するのである。ただし、もし本当に目覚めたら、またいつもの不幸が生じてしまう。その瞬間に悪意が目覚める。怪物的な直接の暴力ではなく、まさに悪意と呼ぶのにふさわしい人間的な行動を取る。その感情の論理は上手にねじれている。
"The thought was madness; it stirred the fiend within me--not I, but she shall suffer: the murder I have committed because I am for ever robbed of all that she could give me, she shall atone. The crime had its source in her: be hers the punishment! " 
これは、人間の歴史を知ることによって身につけた悪意の発露である。こうして、これまでに経緯をヴィクターに語った怪物は、すべての不幸の源である自分の絶対的孤独を解消するため、同類の伴侶を作るように彼に要求する。この要求の仕方は、言葉を覚えたばかりとは思えないほどに筋が通っていて、最初は抗っていたヴィクターも、ついには同意することになる。
"I was moved. I shuddered when I thought of the possible consequences of my consent; but I felt that there was some justice in his argument. His tale, and the feelings he now expressed, proved him to be a creature of fine sensations; and did I not as his maker owe him all the portion of happiness that it was in my power to bestow?"
ここからヴィクター・フランケンシュタインの心は千々に乱れる。それは再び、ロゴスと視覚的感性の葛藤である。
"His words had a strange effect upon me. I compassionated him, and sometimes felt a wish to console him; but when I looked upon him, when I saw the filthy mass that moved and talked, my heart sickened, and my feelings were altered to those of horror and hatred. I tried to stifle these sensations;"
言葉で納得させられても、そのおぞましい姿を見てしまうと嫌悪感が勝ってしまう。この葛藤は、最後はロゴスが感性を押し殺すことで解決され、フランケンシュタインは女を作ることを約束する。

ジェンダー論やポストコロニアリズムを軸にして『フランケンシュタイン』を論じた書物が何かないか探していたら、『美学とジェンダー 女性の旅行記と美の言説』” Women Travel Writers and the Language of Aesthetics 1716-1818” という書物を見つけた。この訳者は、実は知り合いである。

第11章から第16章まで、語り手はヴィクターから怪物に変わる。インゴルシュタットのフランケンシュタインの実験室を抜け出してから、これまでどのような日々を過ごしてきたのかが初めて明らかにされる。それはいわば、人外の者がいかにして人間世界で生き延び、人知を学び、人間を人間ならしめているものが何なのかをその身をもって読者に教える壮大な実験の物語となっている。

怪物は、まず火を見つけ、その仕組みを知る。動物と人とを分ける指標は火である。旧約聖書では、堕天使が誘惑して認識の木の実を食べさせたことがきっかけで、人間は自然から切り離されて楽園追放されるが、ギリシャ神話では、プロメテウスが人間に火を与え、その罪によってコーカサスの岩山に鎖でつながれることになる。いずれも、神の秩序に反する力を手にしたことが人間を人間ならしめるきっかけになっているわけである。フランケンシュタインのモンスターもまた、火を手に入れることで人間と同じく知性ある存在としての一歩を進む。空腹や睡眠や寒暖といった身体的必要だけではなく、感情を持つ存在として育つのである。
他者とのコミュニケーションがあってはじめて人間は人間になる。おそらく日本中の学校や会社で先生や上司が、人間という字は人の間と書くというありがたいお話をしてくれていると思うが、オオカミに育てられた少年とか、熊に育てられた少女とか、ストリートファイター2のブランカとか、親を含めた他の人間との交流が欠けた環境で育った人間は、単に言語や知識だけではなく、人間らしさが見られない。人間社会に迎え入れられ、補完的に関係を構築してはじめて人間となるのである。仮面ライダーアマゾンも、少年マサヒコと友だちになって言葉を覚えてからようやく感情が芽生えてヒーローらしくなるのである。
フランケンシュタインのモンスターも、人間社会に迎え入れられて「人の間」に関係性を築くことができれば、この小説の悲劇も起こらなかったのだろうが、この小説はSF的なゴシックホラーなので、もちろんヒーローもののような成り行きにはなりえない。
火を手に入れた怪物は、飢えを逃れるために次に人里に入るが、黄色い肌を持つ8フィートの巨人なので、もちろん暖かく迎え入れられるはずもなく、ありとあらゆる攻撃を受けて這々の体で逃げ出し、怪我をして野原の小屋に逃げ込む。そこは異邦人ド・ラセーの家に隣接する小屋だった。
怪物はドイツのインゴルシュタットの森を抜けて村に行ったのだから、その村はドイツの村である。ド・ラセー一家は、名前が示すとおり、そして後になってその素性も明らかにされるように、フランス人である。彼らは母国から追放され異境での隠遁生活を余儀なくされている。怪物もまた、「人に姿を見せられぬ獣のようなこの姿(早く人間になりたい!)」と歌われる『妖怪人間』さながらに、人目を避けて生きていかなければならない。隠れ住むという共通項が怪物にとっては都合がよかった。
だが、隠れ住むのは共通していても、彼らは家族愛でつながった集団であるのに対して、怪物はまったくの孤独である。自分と同じ種類を持たないまったくの孤独なのである。その孤独感をますます身にしみて感じさせられる出来事がさら追い打ちをかけるように生じる。この一家に、さらに異質な存在が加わるのである。怪物と同じように言葉を話せない異邦人のサフィーである。この一家が異邦人として隠遁生活を余儀なくされたのは、この家の息子フェリックスがサフィーの父親を牢獄から助け出すために尽力したためである。フランスから逃げ出すことに成功したとたんに、彼女の父親は裏切り、娘をトルコへ連れ帰ろうとするが、娘は一計を案じてフェリックスを追って見知らぬ国へやってきたのである。
ポストコロニアリズムという批評理論がある。パレスティナ出身のアメリカの文芸批評家エドワード・サイード をもってその嚆矢とする。その主著は、『オリエンタリズム』だ。「オリエント」とは、古代ローマ帝国から見て「日の昇る方向」を示しており、東方世界を意味する。ヨーロッパで「オリエント」に言及されるとき、十字軍をはじめとするイスラム教徒との長い闘争の歴史において生じた文化接触の記憶が定式化されていることを想起しなければならない。18世紀後半に始まるヨーロッパ近代の文脈において「オリエント」とは、異教徒たち、すなわち異質な宗教、異質な文化、異質な倫理観を持つ人々が住む国々であり、しかも具体的・現実的な国々というよりは、異質性を強調され固定化された表象としての国々である。
その表象は、シンドバッドの物語などに代表されるように、「異質」という質の違いに非合理や子供だましという劣悪な質を込めた「異国情緒」として固定化される。そしてそこには、先進的な西洋、旧態然とした東洋というステレオタイプが必ず付け加わり、理不尽に虐げられた人々を救う西洋の正義という図式が常に前提とされる。それは19世紀に地球規模に肥大するイギリスの帝国主義にとって都合の良い図式であり、21世紀になってもまだ、暴君フセインを打倒してイラクに自由をもたらすアメリカという物語のひな形にもなっている。

サフィーがトルコへ帰りたがらなかったのは、フェリックスへの思いもあるが、何よりもそこでの暮らしが「ぞっとするほど嫌」(p.166)だったからである。というのも、サフィーの母親はキリスト教徒で、サフィーに「自由」を与える宗教としてのキリスト教を説き、「より高い知性の力と精神の自立」(p.163)をあこがれるように教育した。アジアの女は、「ハーレムに閉じこめられ、幼稚な遊び事しか許されない」というイメージは、中東のオリエントだけではなく、日本の女を語るときにいまだに西欧のメディアが芸者を持ち出すところにも共通している。
忘恩のトルコ人、自由と人権のないオリエントから逃げ出して西洋化するために、ド・ラセー一家に合流するサフィー。そして、怪物もまた、サフィーと一緒に言葉を覚えて西洋化しようとするのである。黄色の西洋人、これは東インド会社を成功させることで帝国内に黄色人種を取り込んでしまったイギリスが抱く恐怖の原型である。外国人恐怖(Xenophobia)である。この外国人恐怖に関しては、去年この講義の枠でおこなった『ドラキュラ』でも取り扱ったので、この講義ブログの去年の部分でも言及している。科学力と軍事力の圧倒的な優位を背景に、攻め寄せ、支配した異民族が、今度は自分たちに刃向かうのではないかという根源的な恐怖心がその基礎にある。ドラキュラは英語を学ぶためにジョナサン・ハーカーをしばし城に幽閉し、やがて帝都ロンドンへ乗り込んで宮殿の近所に住居を探した。フランケンシュタインの怪物は、サフィーのフランス語授業を立ち聞きして言葉を覚え、そこで教科書に用いられたヴォルネーの『諸帝国の没落』をフェリックスが読み聞かせるのを聞いて、「怠け者のアジア人」(P.157)をはじめとする諸民族の特徴など、白人中心史観を身につける。
このヴォルネーの書物は実在する。彼の名は、Constantin François Volney、爵位を付けた正確な名前は、Constantin François de Chassebœuf, comte de Volney といい、ギロティンを逃れてエコール・ノルマルの歴史学教授を務めたこともある強運の持ち主である。ところで、ここで取り上げられている彼の著書の原題は”Les Ruines, ou méditations sur les révolutions des empires” で、出版年は1791である。ここでテクストの30ページを見てほしい。北極海の氷上でフランケンシュタインを発見したときのことをウォルトンが妹か姉に書き送っているが、17**年7月31日の月曜日とある。その前にヴォルネーの書物が出版されていたとすれば、これは1790年代でなければならない。1790年代に7月31日が月曜日であったのは、1797年しかない。これはメアリが生まれた年であり、メアリが生まれることによってメアリの母親が死んだ年である。
フランケンシュタインを取り巻く2人の男、ウォルトンとクラヴァルは、ともに帝国主義的拡大の先兵として活躍することに「男の夢」を抱いていた。フランケンシュタインもまた、やり方は違うが、生命の神秘に分け入ってその仕組みを支配することで、西欧的知性の支配力を拡大する夢を抱いていたことは共通している。未開の、未踏の地へ、危険も省みずに突き進み、未知なるものが既知なるものに変わると、それは支配できる対象に変わっている。フランケンシュタイン、クラヴァル、ウォルトンの3人は、具体的な対象は異なるが、その発想は共通している帝国主義的拡大の欲望に促されている。そして、実際に生死の境界を越えて未知なる領域に踏み込めたのはフランケンシュタインだけであったが、その悲劇は、アジアに活路を見いだそうとするウォルトンとクラヴァルの欲望――帝国主義的欲望――に対する警告にもなりうる。前にも述べたように、Monster には 凶兆や警告という意味がある。フランケンシュタインが未知なる領域へ踏み込んで創造した怪物は、黄色く醜く、創造者である自分に従おうとしない。それはまるで、命をかけた冒険の末に巡り会ったアジア人、文明をもたらした自分たち白人を尊敬し、崇拝し、従順なる奉仕者となるはずのアジア人と同じく、黄色く醜く、しかも疫病をもたらす不潔なアジア人と同じようにやっかいな存在となってしまう。
そしてそのやっかいさは、人種差別という文脈において今も昔も変わりなく機能し続ける生殖力への恐怖につながる。怪物は伴侶を求めるのである。

 

『フランケンシュタイン』がSFの元祖とされるのは、当時の最先端の科学的知見が動員されているからである。主人公が怪物を製造することができたのは、生命現象の本質が電気であることに着目したからだということになっている。この着想は、シェリーがイートン校時代から熱中していた生理学の実験に影響を受けている。(ところで、日本のwikiのシェリーの項目に間違い発見!)18世紀は電気の研究が飛躍的に発展した時代で、その基礎を作ったのが二人のイタリア人、ルイジ・ガルヴァーニとアレッサンドロ・ヴォルタである。死んだカエルの身体に亜鉛と銅でできたアーチ型の電極を刺したら電流が流れて脚が動いたという実験をしたのがガルヴァーニで、それについてはあるカエル好きのネットユーザーがレポートしてくれているので それを参照するように。一連の実験の結果、ガルヴァーニは動物電気説を唱えることになるが、1800年にヴォルタによって反駁され。カエルの身体は単なる電解液の役割を果たしているにすぎず、電気は異なる金属の接触によって生じることが発見された。しかし、ヴォルタの電池の発明は、必ずしも生命と電気の関係を否定することにはならなかった。電池の原理にカエルの筋肉が必要でないということが証明されただけで、生命活動に電気が重要な役割を果たしているということまで否定されたわけではないからである。ガルヴァーニの動物電気説は、彼の甥ジョヴァンニ・アルディーニがヨーロッパ各地で公開実験を行うことによって大々的に喧伝され、たくさんの支持者を見出していたのである。アルディーニは、動物や人間の死体を用いて電気による筋肉けいれんの公開実験(ほとんど見せ物興行の域に達している)を行い、電気が筋肉運動の原因であること、死体も電気によって蘇生する可能性があるということをヨーロッパ中に喧伝してまわったのである。アルディーニの実験報告は、1802年にフランス語、1803年に英語、1804年にドイツ語で出版され、1809年には、非常に影響力のある自然学者であるドイツのローレンツ・オーケン(カタカナで「オーケン」と検索したら大槻ケンヂばかりがヒットして萎えた)が、自著の『自然哲学教本』で、ガルヴァーニ電気が生命の原理であると書いている。

 

Mary Shelley (1797 - 1851)、旧姓を含むフルネームは、Mary Wollstonecraft Shelley。

その家系図は、ミネアポリスのバッケン・ミュージアムのものを参照しよう。そして、その家系の詳細についても、同じくバッケンの説明を参照しよう。それを読めば、新たに付け加える必要はほとんどない。ただし、英語なので、講義にこない人は自力で読んでくれ。もちろん講義では日本語で説明する。

父も母も当時としては革命的な思想家である。母親はフェミニストの元祖、父親はアナーキストの元祖である。

1816年の夏、場所はジュネーブの近郊、レマン湖の畔にあるディオダテ ィ館(Villa Diodati)に5人の男女が集まった。バイロンが借りたこの館に集ったのは、詩人のジョージ・ゴードン・バイロン卿 (Lord George Gordon Byron 1788-1824)、彼の主治医のジョン・ポリドリ(John William Polidori 1795-1821)、詩人のパーシー・ビッシュ・シェリー (Percy Bysshe Shelley 1792- 1822)、メアリ・ウォルストンクラフト・ゴドウィン (Mary Wollstonecraft Godwin 1797-1851)、すなわち後のメアリ・シェリー、メアリの義妹でバイロンの愛人のクレア・クレモント(Claire Clairmont 1798-1879)である。この5人の愛情相関図を示したいが、ブログで図示は難しい。文字で書くと、あまりに錯綜しているの でわけがわからなくなりそうだ。この5人のスキャンダラスな関係の中心人物はバイロンである。すでに腹違いの姉オーガスタとの間に娘のメドラ、妻のアナベラとの間に娘エイダをもつバイロンは、近親相姦のほかに、医師ポリドリとの間の同性愛も発覚して、妻に離婚を迫られて、スイスに逃亡していたのである。それに同道したのが、妻帯者シェリーを不倫 略奪したメアリとその腹違いの妹クレアである。バイロンは旅のあいだにクレアにもちょっかいを出して妊娠させてしまう。だが、バイロンはすでにクレアに飽きており、自分の子供を宿したクレアを厄介者扱いしていた。そのためクレアは、あてつけにシェリーにも色目を使うことになる。一方メアリーは、同性愛的な親交を深めるバイロンとシェリーの関係に嫉妬して、同じくバ イロンをシェリーに奪われた形になったポリドリと、親和力的に友情を深めて行く。